行ったことのあるところ   和歌山県(前置き)

はじめに

和歌山は奈良の隣県でもあり、何度も足を踏み入れている。だから、そのいちいちをすべて書いていたら、前回の北海道どころではない長々しい、それでいてクダクダしい文章になってしまうおそれがある。ゆえに、その数度の紀州行きの中で最も記憶に残っているものを一つだけに絞ってお伝えしたいと思う。

白の幻想

それにしても・・・私はこの「行ったことのあるところ」を書き始める時に、

順序を定めずに思いつくまま書いていったら、回を重ねるうちにどこを書いて、どこを書いていないかわからなくなってしまうのではないか。何を書いて、何を書いていないかわからなくなり、一つの記事をある程度書き進めた後、「あれ、これはもう書いたんじゃないか。」ってことに気づき、調べてみるとその通りで、それまでの時間を無駄にしてしまうことがしばしばあったじゃないか・・・

それならば・・・そうだ、北から順番に書いてゆけば、そんな煩わしい思いをしなくても済むのではないか、というところに思い立った。

と書いた。なのに、北海道が終わったばかりなのに、もういきなり「和歌山」なのか・・・我ながら思っている。先週のある日、職場の窓から見た、今年3回目の雪(ちらつく程度だけどね)を見ながら、今からちょうど40年前の2月の・・・確か2日だったかな?土曜日だったのは覚えている。大学に入って1年も過ぎようとしていた、そんな時期である。

土曜日は大学の講義も午前のみ。いつもなら講義が終われば、さっさと大学を離れ商店街の定食屋あたりに足を運んでいたところであるが、その日はほかの曜日と同じように学食で済ませ(お決まりのきつねうどんとカレーライス)、それぞれの学科にあてがわれた学科会室という部屋(国語国文学科室)で友人たちとたむろしていた。

その日の午後、私が万葉輪講(私の母校にあった学生による万葉集の研究会)で1年間お世話になった、・・・H矢先生の定年退職を記念しての最終講義が予定されていたからである。もうすぐ正午という時間帯だったかと記憶する(自信はない)。それまで明るかった空が急に暗くなり、雪が降り始めたのだ。雪の少ない大和にあっては珍しい激しいふりで、あっという間に地面は真っ白になった。2~3㎝は積もっただろうか。

そして、雪はやんだ。学科会室からはH矢先生の最終講義の立て看板が見える。「白の幻想」。そこにはその最終講義の演題が書かれていた。

すべてが漢字で書かれている万葉集にあっては助詞や助動詞といった、いわゆる付属語の表記が省略されていることがしばしばある。先生はその助詞、助動詞が読み添えられる場合の・・・そのありようについて研究されていたのだ。あまり向こう受けするようなテーマではなく、いささか語弊があることを恐れずに言えば、地味なテーマであったといっていい。(しかしながら、、万葉歌を読み解いてゆく際には必要欠くべからざるものであることは言うまでもない)。そんな先生がつけられたにしては、いささか派手な演題で、私などは、いったい先生がどのようなお話をするんだろうか・・・そんな思いで、この時が来るのを待っていた。

そして、あたりはその演題にふさわしい白一色に雪に覆われていた。地面に降り敷いたわずかばかりの雪を踏みしめて、私は看板の立てかけられた講義棟の入り口に向かう。会場は、我が母校の講義室としては最も大きな部屋で200人以上は収容できる。その講義室がほぼ満杯となっていた。我が国文学国語学科の先生方、学生、そして他の学科の先生方。今か今かとH矢先生のお話が始まるのを待っていた。

この講義語られたことは大宝元年、文武天皇の紀伊行幸の際に詠まれた歌々についてである。

続日本紀には

冬十月庚子朔丁未車駕至武漏溫泉・・・戊午車駕自紀伊至

とある。上記の行幸についての記事である。武漏溫泉とは現在の白浜温泉のこと。この記事と符合するかのように万葉集には、

大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌(万葉集巻1・五四 題詞)

大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首柿本朝臣人麻呂歌集中出也(万葉集巻2・一四六 題詞)

大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首(万葉集巻9・一六六七 題詞)

と、この時に詠まれた歌が収められている。先生のお話は、このうち巻9に収められた13首についてが中心のものであった。

その中身について、私がここであいまいな記憶をたどり(しかも、この時の私に先生の語ろうとしたことのどれほどが理解できていたかははなはだ自信がない)、くだくだしくかたるよりは、その時にはすでに先生がまとめられていたご論文を参考にしていただく方が賢明であろう。

大宝元年紀州行幸の従駕歌(「辺道24巻」 1980年3月)

ただ、先生はこの最終講義にあっては、そのご論文の内容をさらに膨らませ、踏み込んだ発言をあちらこちらでなさっていた(ことをのちに上記論文を読み知った)。そして、一通りを語り終えた後、先生は私達学生に教え諭すように話を締めくくられた。外は講義の始まるころと打って変わって、温かな日差しが注ぎ、先ほどまで地面を白く覆っていた雪はすっかり消えていた。そんな風景に目をやりながら、

先ほどまでまでの私の話は、今度の「山辺道さんぺんどう」に書いたものですが、今日話した中には、論文には書かなかった、いや学者として書けなかったことがたくさんありました。皆さんならそれがどの部分であるか分かっているかと思います。いや、分からねばなりません・・・幽霊(UFOだったかな?)を見たという人が、そのことを他人に伝えようとするならば、ただ「幽霊を見た」といっても誰も信じてはくれないのです。他人に何かを伝えようとするとき、そこには確たる根拠というものが必要なのです。面白いけれども根拠のないことなのか、あることなのか。面白くないけれど根拠のあることなのか・・・しっかりと見極めなければなりません。・・・きれいに積もった雪でしたが、もうすっかり消えて地面が見えています。この地面こそが私たちが探し求めるべきものなのです。けっして美しい雪にごまかされてはいけません。雪のあるうちに、その下にある地面を見通さなければならないのです。美しく降り積もった雪は確かに人々の目を引きますが、このようにはかなく消えてしまう頼りのないものです。私達の求める学問というものはそんなものではいけません。

しかとはあらぬ記憶をたどって、その時の先生のおっしゃったことをまとめるならば以上のようになろうか・・・少なくとも、私の受け取りはこのようなものであった。おそらくは、その当時、万葉集界隈や日本語界隈において耳目を集めていたいくつかの話題を念頭に置いてのことであったかと思う。

終わりに

ここまでくれば、なぜ今回の「行ったことのあるところ」が和歌山県なのか、概ねお分かりになられたかもしれない。職場の窓からちらりと見た雪、そして思い出された40年前の記憶・・・

そう、私たち(万葉輪講の面々は)は、この後・・・3月にH矢先生のご退職を記念して、一緒に紀伊半島をぐるりとめぐるたびに出た。2泊3日の旅である。実は万葉輪講にあっては、くだんの13首(大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首)を夏から冬にかけての13週をかけて、1首ずつ読み解いていたのだ。だから、この旅はそれらの歌を訓んだうえでの実地踏査でもあったのだ。

さて・・・どんな旅だったのやら・・・

行ったことのあるところ   和歌山県(前置き)” への4件のフィードバック

  1.  そういえば、ぼくも和歌山市には一泊したことがあります。
    > 他人に何かを伝えようとするとき、そこには確たる根拠というものが必要なのです。
     これは実にいいお言葉ですね。どこぞの大臣や議員どもに聞かせてやりたいと思います。

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  2. 薄氷堂さんへ

    まあ、確たる証拠もなく、いい加減なことを書き散らす不詳の弟子ですから大きなことを言えませんが・・・でも、師匠のこの時のお話はしかと記憶に残っています(言葉の端々までは・・・自信がありませんが。)。

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  3. 和歌山は私にも関わりの深い土地ですから(笑
    和歌浦なんて観光の売りに万葉集を多用する場所でもあります。
    下って岩代から白浜までの間はそれこそ有間皇子の逸話の宝庫ですからねぇ。

    という私は所々だけ拾って歩いただけなんですけどね。

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    1. Noriさんへ

      おっしゃるような場所についてこれから書いてゆくところなんですが・・・
      40年も前のことなので、どうにも思い出せないことが多くって困ってます。

      和歌の浦を素通りしたのは覚えているんですがねえ・・・

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