結局のところ再引っ越しをします。

あれこれと考えましたが、やはり今後の更新はこちらの住所で行ってゆきたいと思います。

http://sanpendo.wp.xdomain.jp/

これからは、ここの住所はこれまで書いたものの保存場所として利用してゆきたいと思います。度々お手間をおかけして申し訳ありませんが・・・できますればブックマークのお書き換えを・・・

三友亭主人

お散歩 2020/4/19

ちょいと気が引けるような気もするが、お上だって健康維持のための散歩程度の外出は認めているんだから・・・ということで大神神社まで出かけてみた。外に出ると誰もいない。

なあに、これはいつものことで近所の皆さんが外出を自粛しているというわけではない。我が町では過疎化・老齢化の影響で普段からこんな状態だ。

家を出てから大神神社の拝殿の前に出るまでの10分間ですれ違ったのは、近所の集会所の庭先を掃除していたおばさんと、これまたやはり道を掃除していたおばさんの二人だけ。拝殿の前だって普段から比べるとずっと参拝客は少ない。

何とも不景気な光景ではあるが、今日出かけてきたのは、こいつがそろそろ顔を出しているんじゃないかと思ったからだ。

ギンリョウソウ / Google Photos

あんまり気持ちのいいものではないが、毎年お目にかかっているだけに、今年もそろそろかなと思いだしたらやはりこうやって足を運んでしまう。

引っ越してはみましたが

春の花は桜ばかりではない。

私の家からちょいと南に下ったところの西へと抜ける道・・・伊勢街道の道端にしがみつくように咲いていた菫である。 ところで、先日引っ越しのご案内をした。そして引っ越しの際に問題になるなあと思っていたブログ内のリンクは少しずつ訂正しておこうか・・・などと申し上げたが、ちょいとその作業が止まっている。

理由は・・・無料で「お部屋」を貸してくださる、その上愛用のWordPressが使える・・・そんなレンタルサーバー屋さんが見つかったのである。 WordPressがいったんダウンロードしたソフト(無料だよ)を、自分で用意したサーバーにアップして使用するサービスであるのに対して、今回の引っ越し先のWordPress.comはそのWordPressのサーバー付きのサービスで、基本的には皆さんがお使いになっているブログサービスと同様のものである。けれども基本となるソフトはどちらもWordPressなのだから、雰囲気やら使い勝手はかなり似ている。データの移行も極めてスッキリいった。 けれども、機能的には大分差があり、これはどうしたものだろうか・・・と思っていたところに無料のサーバーの発見である。

今回引っ越しを考えるきっかけになったphpは最新のものに更新済みである。 機能の差・・・とは例えばダウンロード型のものならば過去の記事の住所を書いただけで、その記事の表題と抜粋を表示してくれるのだが、

・・・てな具合に・・・・このWordPress.comではそれができない。だから同じようなことをしようとすれば 引っ越そうかな、引っ越すのやめよかな のような感じで記事の題名を書き、そこにリンクを貼らねばならない。まあ、見栄えだけの問題ではあるが・・・それに慣れてしまった私にとってはあってほしい機能である。

くわえて・・・WordPressはその中にプラグインと呼ばれる数多くのアプリを追加装備することによって、様々な機能を追加してゆくことができる。けれども、WordPress.COMではそれができない。最低限度のプラグインは初めからアップしてあるのだが、追加しようとすれば有料版へのお誘いが出てきてしまう。それに乗っかってしまえば、なんのために無料のブログサービスを選んだのだかわからない。

例えば振り仮名。 ネットの世界ではその煩雑さからであろうか、難読の漢字に振り仮名をつける際には「万年靑(おもと)」のように( )でその訓みを示している場合が多い。けれども、それだと振り仮名を多用する場合にはどうしても( )を多用することになり、どうにも訓みにくい。だから私の場合は通常の「莫大小メリヤス」といった感じに振り仮名を振りたい。そして、WordPressのプラグインには振り仮名を簡単に降ることのできるプラグインがあって、私はそれを活用してきた。けれどもWordPress.comではそれができないのだ。むろん、htmlをいじればそう難しい作業をしなくともルビは振ることができる。けれどもそれでもやっぱり面倒くさい.

それに・・・先日苦労して導入したUDデジタルフォントも WordPress.comでは使用できない。こちらの方は少々裏の方をいじってみても無理である。

いずれにせよ・・・まあ、ただなのだからそのあたりの不便は我慢しようか、と思っていた矢先にXfreeというWordPressが使える無料サーバーを見つけた。さっそく「お部屋」を借りてWordPressをインストールしてみた。そして、「http://soramitu.net/zakki/」の方のバックアップしてあったデータをインポートしてみたのが http://sanpendo.wp.xdomain.jp/ である。使い勝手がまことによろしい。WordPress自体はこれまで使ってきたものであるから、そう大差はない。したがって上にあげた二つの問題は考える必要がない。Xfreeを選ばない手はない。 が、そこで躊躇してしまうのが・・・私だ。

このXfreeというサービスが果たしてどこまで信じられるのか、と思ってしまうのだ。皆さんの中にはご使用中のサービスが突然中止になって困ってしまった方もきっとあられるだろう。XfreeとWordPress.comの信頼度を考えたとき、その軍配はWordPress.comに上がるだろうと私が思ってしまうのは、私がこの世界に無知であるが故のこと・・・だけではないと思っている。 くわえて、無料なるが故の限界として、その容量の小ささがある。2Gというサイズは私にとっては決して小さすぎるサイズとは言えないが、画像を多用したときにその容量がいずれ・・・と思ってしまうのはあながち間違いとは言えない。 だから・・・迷っている・・・というのが本音である。

ちなみに

http://sanpendo.wp.xdomain.jp/

がその住所である。

・・・てなことを考えてあれこれ「実験」を繰り返していたのだが、その中であることに気が付いた。

それは・・・上のXfreeの方の点検を行っていた時のことである。一見特に異常なく作動しているかに見えた。が、ふと思いついて写真の上にカーソルを置いてクリックしてみた。ご存知のように、写真は拡大されて表示された。しかしながら・・・そのアドレスを見ると以前の「soramitu」になっているのだ。あれっと思って写真のフォルダーを見ると写真の方が一つもアップされていない。テキスト類はすべてがうまく移行することができていたのだが・・・2Gというサイズは私にとっては決して小さすぎるサイズ・・・とは思っていたが、やはりファイルのサイズが大きすぎたようだ。

あれあれ、これは困ったぞ・・・と思ったが、やはりこれでは、Xfreeへの引っ越しはちょっと無理か・・・

そして私の考えたことは二つ。

一つ目

少々の不便はあるけれども、先日皆さんにお伝えした住所で、すなわちWordPress.com今後このブログを更新してゆくこと。まあ、これが順当なところかなと思う。

そして二つ目

今までの記事や写真はこのWordPress.comの方に残しておいて、これからの新しい更新はXfreeで行う・・・これは一つのブログサービスがいっぱいになってしまったときに多くの方がやっていらっしゃる方法である。

さてさて、どうしたらよいものか・・・

行ったことのあるところ   岩手

はじめに

灯台もと暗しとはよく言ったもので、現在奈良に住んでいながら関西の観光地で主立った場所にはあまり行ったことがない。いつか行ける・・・なんて思いで、また今度、また今度と先延ばしにしてきた結果である。比叡山もまだだし、高野山もまだ、そんでもって京都の有名なお寺は数えるほどしか行っていない。

関西以外のお住まいの皆さんからしてみれば何とも勿体ない話しではあるが、ふと振り返って自分の出身地である東北はどうであろうかと思ってみたとき、行ったか行かなかったか定かではない秋田と山形を除けば、あとは福島と岩手ぐらいにしか足を踏み入れていない。ということで、今回は北から順番にという当初のルールに戻って岩手県に行ったときのことを書いてみたいと思う。

私が岩手の地に足を踏み入れたのはもう45年も前のことである。そして、それっきりのことである。それは、中学校の遠足のことであった。

私が学んだ鳴瀬第2中学校(現鳴瀬未来中学)では、私が入学するかなり以前からは遠足のコースはほぼ固定されていた。1年は鬼首、2年は平泉である3年は修学旅行で日光と東京観光である。その2年の平泉行きについて今回は書いてみたいと思う。とはいえ、上にも書いたように45年も前のことだからどこまで思い出せるかは甚だ心もとないが、最善を尽くしてみたいと思う。

当時は東北自動車道も完成していなかったから、私たちは国道45号線をバスに乗って北の上ることになる。今ならば、45号線のほとんどが三陸自動車道との重複区間も多く、東北自動車道を使わずとも1時間30分ほどで到着するが、当時はどれぐらいかかったのかあまり記憶がない。ただ、日帰りでしかも中学生の遠足であるから、その帰りの時間も考えると3時間もかかったりはしなかったと思う。おそらくは2時間とちょいと・・・そんなところではなかったろうか。たどり着いた先には広い駐車場といくつかの土産物があった。

中尊寺である。

中尊寺月見坂

中尊寺は、関山という山のの上にある。月見坂と呼ばれる長い坂道を上る。けっこうな坂道だ。ところどころで右手に眺望が開けていた。衣川と北上川の合流点が見える。今ならば・・・

伊予守源頼義の朝臣、貞任・宗任らを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。鎮守府を発ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、 軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、

衣のたてはほころびにけり

と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、

年を経し糸の乱れの苦しさに
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。

古今著聞集

なんて逸話を思い出したり、

高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。

奥の細道

という江戸時代の俳人の俳人のため息交じりのつぶやきを思い出したりと、さぞかし文学的な感慨にふけっていただろうに、やんちゃ盛りの中学生はそんなことに思いも往かず、なんでこんな急な坂を上らなきゃならないんだなんて不平を言いながら歩き続けていたのは、その日は5月だというのにかなり暑い日だったからだと記憶している。

しかしながら、思い返してみればこの時にはすでに古今著聞集の逸話は知っていたはずである。なんとなれば和歌森太郎著のジュニア版日本の歴史は何度も読み返していたからで、その中にも確かにこの逸話は載っていたからである。くわえて、今になって思い出せば平泉にたどり着くまでのバスの中でガイドさんがそんな話をしてくださっていたようにも思う。それなのに・・・である。いかに知識のための知識にとどまっていたか・・・情けない限りである。

中尊寺金色堂

今の私ならば、この寺にまつられている幾多の仏像、そして絢爛たる堂宇をしげしげと見つめ、往事の藤原氏の栄華を偲んだであろうが、この頃の私たちの興味はもっぱら金色堂のみである。

経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。
五月雨の降り残してや光堂

奥の細道

なんていうのも、それから数年後に高校の古典でやっと知ることになっただけである。

さあて、坂を上り詰めて金色堂にたどり着く・・・金色堂とはいうが、ぜんぜん金色じゃないじゃないか、それどころか鉄筋コンクリート製じゃあないか・・・それが最初の印象であった。けれどもそれはただ私が無知であっただけのこと。私たちの目に入ってきたものは金色堂を風雨から守る爲の覆堂であった。700年にわたって金色堂を守り続けてきた覆堂(鞘堂)は現存してはいるが昭和の大修理(1962年)の際に、新覆堂にその役割を譲り、今はその余生を静かに送っている。新覆堂が鉄筋製になったのは金色堂という極めて重要な建築物をしっかりと守る爲には、堅牢な鉄筋コンクリート出なければならないという考えかららしい。

中に入る。静かな薄暗がりの中に控えめな明かりに照らされた金色堂が目映く輝いている(今はLEDらしい)。堂宇全体を金箔で多い、その内部の装飾にも「七宝」「珠」をふんだんに使ったその姿には好悪の感情もわかれようが・・・中学生であった私にはとにかくめずらしく、心躍らされるものがあった。

古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろ/\の部分がとき/″\少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。

谷崎潤一郎 陰影礼賛

なんて文章に触れるのも数年後、高校の現代国語(今は現代文というらしい)の授業であった。もちろん金色堂の創建当時はそんな意図はなかっただろうとは思うが、後に覆堂が作られて以降は谷崎の述べるような趣も生まれてきたのではなかろうかと思う。

厳美渓

厳美渓は、栗駒山を水源とする磐井川中流の渓谷で、所在地は岩手県一関市。中尊寺からはバスで30分とはかからない。1927年に国の名勝及び天然記念物に指定されている。約2kmにわたってたぎち流れるえめらるどいろの流れと、両岸にそそり立つ巨岩の偉容は古くから景勝地として親しまれている。江戸時代、この地は伊達藩の領地であり、その領主であった伊達政宗もこの絶景を高く評価し、「松島と厳美がわが領地の二大景勝地なり」と言ったとか、言わなかったとか。典拠に当たることができなかったのでよく分からないが、政宗が設けた茶室・臨泉亭の跡も残されているそうな。

明治期に入っては明治天皇の行幸が有り、さらには幸田露伴がこの地を訪れ、『易水後心』(「枕頭山水」収録)という紀行文を残している。その一文がまさに露伴翁の面目躍如、私一人がその美酒に浸るのは皆さんに申し訳と思うので以下に引用しておく。

沓が鼻とかいうところにいたれば対岸の岩聳えて淡水静かに堪えたる景色眼覚める心地す。やがて五串いつくしに着けば聞きしに違はで流れの態も尋常ならず。とある家に一ト憩ひとやすみみして 後渓のほとりを漫歩し、おもむろに眼を転じて水激し巌叫ぶ方を視下ろすに、 渓を成す皆巌なり、というてもよきほど岩石重畳して、赤松その上に生ひ、碧水へきすい其罅さかを行く風情もことに塵外の想を発せしむ。天工てんぐと名づくる橋ありて構造も俗悪ならず。岩より岩に架け渡せる様画中のものなり。それを渡りて左りすれば小やかなる堂あきたるものありて観覧の便宜をなしあるにぞ下駄脱ぎ捨てて上がり込み、勾欄こうらんに頬杖突張りながら観れば観るほどよい景色にて、少しく木曽の寝覚に似て趣はまた大きく異れり。彼は渓深くして水に遠く、臨川寺よりはただむかひの岸の岩の立てる河中の石の状の奇なる淵の蒼々たる水の尾の瀬をなしてはしるを見るに過ぎねど、此れは渓深からで水に近く橋よりは瀧を見るべく堂よりは瀬を見るべく、淵の蒼き、岩の奇なる、殊更岩の上に老松幾株翠を擬せる。水の幾羽にも分かれて流るる、もとより此彼しかに優るとは云い難きも、 かれついに此が兄たりとは却って中々に称し難し。ましてや寝覚は幾千の山 坂を超えて後漸ようやく到るを得べき境なれば都会育ちの老人女性には難儀なる地なれど、此の地はかかる好景の常として里遠きところにあるものなるに引かへ、絹足袋穿はいた弱柔男にもいと容易く駒下駄掛けにて行かるるような市街(一ノ関)近く道好きところ在るは真に称すべし。それのみならで今は葉時なれど桜の木さへ少なからず見ゆれば、花時の眺望如何に清絶美絶なるらむ。想いやるだに松の翠の間を佐保姫の刺繍して出だす。桜花甲所に、一笹の雪乙所に、一団の白雲を現じなば、流れも巌も一倍の光彩を発して、水妙香を伝え石落紅を点ずる風流実に賞するに足る事なるべしと思わる・・・
※「枕頭山水」は少々手に入りにくいので、上記の本文はげんびけい観光の「厳美渓」というページを参考にさせていただいた。原文はかなり多くの 旧字体の漢字が用いられ、ふりがな句読点なども付してはいないが、当ページが読みやすいように整理したものを、さらに三友亭が独断で改めた場所もある。

しかしながら、グラスを片手にこんな文章を読みながら一人悦に入るのも今の齢に達したからのことで、中学生の頃の私はその絶景に目もくれずにひたすらめざしたものがあった。それは我が母校鳴瀬第2中学校の先輩でもある兄たちに聞いていた空飛ぶ団子である。兄たちの言によれば、なんでも厳美渓には川を挟んでケーブル伝いに中空を行き来するかごで売っている団子があるという。それが又美味。厳美渓に行ったならば絶対にあれは食べないといけない・・・・と聞かされていた。

バスが厳美渓に着く。バス停で下りると目の前には露伴翁も書いていた天工橋。その橋は渡らずに左手の方に下りてゆくと少々開けた岩場がある。そこが私たちの見学場所であったのだが、そこに小さな四阿がある。そしてその四阿から対岸に向けて一本のケーブルが延びている。向こう岸はこちらよりも5mぐらいは高くなって(あくまでも印象だけれども)いて、そこに古びた茶屋がある。ケーブルはその茶屋から延びているのだ。

四阿にはすでに先客がおり、注文した団子が空を飛んでくるのを待っている。

程なくして静かに・・・それでいてけっこうなスピードでかごが川を渡ってきた。先客はいそいそと注文した品物を受け取りその場を立ち去る。私はかごにいくばくかの金子(今は400円だが当時いくらしたか憶えていない)を入れ、四阿の脇に下げられた木板を木槌でたたく。その音に反応してこちら側にあったかごは対岸に移動する。

しばらくして・・・お団子の到着である。紙コップに入った熱いお茶もついている。あれほどのスピードで空を飛んできたというのにお茶は少しもこぼれていない。かごを操る方の技術に感心しながら包みを開く。5個の団子が串に刺されたものが3本。あんこ・しょうゆ・ごまあんである。「しょうゆ」とはいってもただの醤油を塗ったものではなくどちらかと言えばみたらし団子のそれに近い。「ごまあん」はごまをすりつぶしたものを砂糖で甘くしたもので、岩手や宮城の人間にはなじみの味である(なんてたってごまあんの最中があるぐらいだ)。1個1個が大きめでけっこうな分量があり、今の私ならばこれらをすべて食べたならば、その後はもう何もいらないという感じになってしまうが、なにぶん育ち盛りのこと、5個かけるところ3本。締めて15個の団子をさらっと平らげたのは昼食を取り終えたばかりの時のことであった。


※ 記事内で使用したしゃしんのうちに「月見坂」「かっこう団子」のものは岩手県観光ポータルサイト「いわての旅」からお借りした。また金色堂新覆堂の ものはphoto acというサービスからお借りした。

お散歩・・・3/21

久々の週末散歩。こんなに暖かい日が続くとさすがの私もちょいとその辺を歩いてみようかという気持ちにもなってくる。コースはいつもの通り。

まずは家の裏手の突き当りを東に向いて折れる。結構な坂道なので、少々上ってゆくと眺望が開けてくる。

ああ、春なんだなあという実感をかみしめながら、こんなのどかな眺望のもとにあっても世間は大変なことになっていることにいささか複雑な気持ちを持ちつつも、坂道を上り詰める。そこにあるのは三輪山平等寺。いつもはあまり目が行かない道しるべに目が行った。

上のものはこの道を北向きに進んだときに見えるもの。そして下は南向きに進んだときに見えるものである。「三わ明神」はもちろん「大神神社」のこと。「はつせ いせ」は「長谷 伊勢」のこと。その昔この道が長谷の観音さんやお伊勢さんへと京の都の人々がお参りする際に、大神神社へちょいと立ち寄ることも少なかったのではないか・・・ということをしめす証人と言えるのではないかと考えるのだがいかがなものだろうか。

次はいつもの通りに大神神社で手を合わせる。通常とは異なってこの日は疫病退散のお祈りをする。

ところで、いつもはあまり興味もなく通り過ぎる祈祷殿がいつもとはちょいと様子が違っているのでちょいと一枚撮らせてもらった。

見づらい写真で申し訳ないのだが、硝子戸の中・・・殿内を凝視していただきたい。右の端から左の端まで巫女さんがずらりと並んでいる。写真ではわからないとは思うのだが、外から拝見する限り、それが2列。そしてその奥には神主さんが、やはりずらりと並んでいる。長年この地で暮らしてはいるが、このような光景を見るのは初めてだ。もちろん、普段から定期的に行われていることで、それをいつもは見逃しているだけなのかもしれない。けれども、私がこの辺りを通過するのは週末の8時すぎ。そして今日もその時刻である。

てなことを考えると、これはどうしたって疫病退散の祈りがささげられている・・・なんて考えてしまうのが人情である。

果たして真相はいかに・・・

次は久延彦神社からの春景。

久延彦神社では、自分の分に加えて、薄氷堂さんの分のお祈りも忘れてはいないこと、いつもの通りである。

さあて、次は今日のお散歩の主たる目的地である。

若宮さん・・・大直禰子おほたたねこ神社である。今日は特にこちらに念入りにお願いしなければならない。このお社にお鎮まり頂いているのは大直禰子という人物(神様?)であるが、その方になぜ念入りにと私が思うのか・・・それは以下のような話が古事記にあるからである。

この天皇(三友亭注 崇神すじん天皇)の御代に、疫病(伝染病)が多くの人に広がって、人々が死んでいなくなってしまいそうになりました。そこで天皇はご心配になり、またお歎きになって、神のお告げを受けるための寝床を作ってお休みになられた夜に、大物主神が天皇の夢の中に顕れてお告げになり、「これは、私の意志によるものだ。だから、意富多多泥古おほたたねこ(三友亭注 大直禰子のこと)によって私を祭らせるならば、神の力による疫病は起こらず、国は安定し穏やかに治まるだろう」と、おっしゃいました。このお告げによって、お使いを国中にお出しになって、意富多多泥古という人をお探しになったところ、河内の美努村(大阪府八尾市周辺)でその人を見つけ出し、天皇のもとに伴ってきました。そこで天皇が、「お前は、だれの子か」とお尋ねになると、答えて、「私は、大物主神が、陶津耳 すえつみみ命の娘である活玉依毘売いくたまよりびめと結婚されてお生みになりました子、名は櫛御方 命。その子が飯肩巣見命。その子が建甕槌命。その子(櫛御方命の孫の子)が私、意富多多泥古でございます」と、申し上げました。そこで天皇は、たいそうお喜びになられて、「天下は安らかに治まり、きっと人々は栄えるであろう」とおっしゃって、すぐさま意富多多泥古命を神主(祭り主)として、御諸みもろ 山(三輪山)の意富美和之大神(大物主神)の前を厳粛にお祭りなさいました。

「三輪の大物主神さま」より  監修 大神神社  原作 寺川真知夫

そしてめでたく疫病はおさまったのである。

まさかこの度の禍が大物主神によるものだとは思わないが、このような話を聞くとまずは大直禰子さんにお願いしてみようかなんて思ってしまうものである。