すめろぎの御代栄へむと・・・下

「万葉集の北限の地」と「海ゆかば」と「大仏」のうち「海ゆかば」と「大仏」の関係についてを前回は述べた。そして・・・「万葉集の北限の地」という文言との関りも、ある程度はお気づきのことかと思う。そう、この地こそ賀陸奥國出金詔書歌で「鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に」と詠まれた地なのである。そしてこの地に鎮座するのが黄金山神社である。

この日の宿泊地は南三陸町。宮城県北の海辺の町である。ちなみに、今回訪れたこの地、宮城県遠田とおだ涌谷わくや町はかなり内陸に入った場所であり、やはり海辺にある仙台空港から南三陸町に行こうとすれば、かなりの遠回りとなる場所である。そんな遠回りをしながらも、わざわざこの地を訪れたのは・・・前回までの記事をお読みいただけていたならば、そんな私の思いの発するところはおわかりいただけることは思うが、 あえてもう一つ付け加えるならば・・・

私は今、大和の地に暮らしている。大学を選ぶ際に、大和の地にある大学を選び、そのまま大和に住み着いてしまったのである。子どもの頃から大和を中心としたこの国の古代に興味関心が強かったので、大和にある大学に入り、そこでその時代の人々の心ばえを今に伝える万葉集を学んだ。そして・・・今もなお、チラチラとは万葉集に関する書物を読んでみたり、関係する講演会があれば聴きに行ったりしており、今だのその関心は薄れてはいない。

そして・・・この涌谷の地こそが、我が郷里である宮城と万葉集とを唯一結びつける地なのである。

知っての通り、万葉集の巻の14には「東歌」と題された東国の人々の歌が集められている。また、大伴家持の集録した防人の歌もまた東国出身の防人たちの詠んだ歌である。

が・・・ここで言う東国とは、多くの場合関東までの地をさしており、今の東北に当たる地を詠んだ歌はほんの数首のみである。(「北川研究室「万葉集の東歌と防人歌」源さん、ごめんなさい。勝手にリンクを張っています

しかも、その数首は福島の地名を読み込んだものであり、宮城の地が読み込まれたものは東歌には存在しない。唯一、宮城の地が万葉歌に詠み込まれたのはこの地のみで、文字通り「万葉集の北限の地」の地が、この遠田郡涌谷の地なのである。しかも、その歌の作者は万葉集の編纂者とも考えられている大伴家持だ。

だとすれば・・・私がこの地を訪れないわけにはゆかないではないか。

ところで・・・前回紹介した家持の長歌には「東の国の 陸奥の 小田なる山に」と詠まれた、その「小田」という地名についてであるが、続日本紀に

出金山神主小田郡日下部深淵少位下

天平勝宝元年五月

とあることにより、この「小田」という地名が郡名であったことが知られるが、現在はそのような郡名は宮城県内には存在しない。中世のある時期に隣接する遠田郡と合併されたらしく、早くにその地名は失せてしまったらしい。このことにより江戸期には混乱が生じ、天平年間の産金の地は牡鹿半島の沖合に浮かぶ金華山であるという説が生じ、広く信じられていたらしい。国学者沖安海やすみの詳細な考証の末、この涌谷の地が天平産金の地であることを確認した(「陸奥国少田黄金山神社考」1810年)。以降、複数の歴史家により、その考えは追認された・・・ということを「天平の産金地、陸奥国小田の山」(鈴木舜一 『地学雑誌』2008年5月)という論文を読んで知った。あの「言海」で有名な国語学者大槻文彦も「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」という書物を著し、沖安海の考えを発展させたらしい。さらには戦後、1957年、東北大学の調査隊が奈良時代の建築物跡と屋根瓦が発見し、さらには地質調査によってこの地域の土質に純度の高い良質の砂金が含有されることが明らかになった。また、私が高校に入学してすぐの頃、化学の授業時間のこと、化学の受け持ちの先生は我が母校の科学部の顧問をしておられた。その雑談の中で数年前のこととして、この大仏建立の際の産金の事実を知った科学部の生徒の一人が、「今も金はとれるんだろうか?」という疑問を発し、科学部の活動としてそれを確かめてみようと言うことになったらしい。涌谷は私の母校のあった石巻から汽車で30分ほどの地であった(もっとも黄金山神社は駅から大分あるんだけどね)。毎週日曜日、朝の早くから日の暮れるまで1ヶ月の間、ゴールドラッシュよろしく彼の地の沢の冷たい水に足をひたし、科学部の先輩方は砂金取りに励んだらしい。

・・・・そして・・・その甲斐あって金を見つけることはできた・・・その量、0.5グラム。

まあ、今もなお充分な量の金がとれるのならば、たかが高校の科学部ぐらいが勝手に砂金取りに沢に足をひたすなんてことはできるはずもないわけで、もっともな成果であったわけだが、それを充分知りつつ1ヶ月の間生徒たちの無謀な行為に付き合ってくださった先生は今もなお私の尊敬の対象である。

ともあれ、わずかばかりではあるが金は産出した。この地こそまさしく・・・

・・・なのである。

さて、当地についた私は早速黄金山神社にお参りをする。

主祭神は金山毘古かねやまびこ神。伊弉冉いざなみ尊が国産みの際に火の神である火之迦具土ひのかぐつちを産み、火傷を負い苦しんでいるときに、その嘔吐物)から化生した神であるそうだが、その御名からも察せられるように、この神社の御利益は金運向上。これまたお参りしなければならない理由の一つである。ちょいと奮発して銀色に輝く効果の方をお賽銭箱に入れ、二礼二拍手一礼の正式な参拝をして願うことは・・・この日だけはいつもの「世界の恒久平和」ではないことは自明である(笑)。
さて、お参りを済ませた後、拝殿に向かって右手にある巨大な石碑を見る。

写真ではわかりづらいが・・・そこには

須売呂岐能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾 金花佐久

と彫られている。これをわかりやすく表記すると

天皇の 御代栄えむと 東なる  みちのく山に 金花さく

万葉集・巻十八・4097

となる。先日紹介した大伴家持の「賀陸奥國出金詔書歌」の反歌である。筆は・・・なんと山田孝雄。 言わずと知れた、著名な国語学者である。歌碑の建立は1954年9月。戦後、その来歴から戦争協力者として公職追放となった山田孝雄は1949年に仙台に移住し、辞典の編修等に専念していた。その後、1951年には公職の追放が解除となり、1953年には文化功労者顕彰を受けている。この歌碑の揮毫はそういった事情を受けてのものなのだろうか・・・

なお、後からこの神社のホームページで確認したところ、境内には大槻文彦の揮毫による「日本黄金始出碑」というのがあったそうだが、つい見過ごしてしまった。不勉強のためとはいえ、なんとも惜しいことをした。

さて、黄金山神社は国道346号線の沿線に位置し、道路沿いにある天平ろまん館という施設の駐車場からは300mほどの地にある。参道の入り口には「黄金山」という名にふさわしい金色の鳥居が屹立しており、拝殿の方から流れてくるささやかな沢ある。これがかつて砂金を産した沢なのだろうとと思いつつ、その沢沿いに緩やかな上り坂となっている参道の両側はよく整備されており、いくつかの石碑が並んでいる。あまり時間がなかったため、その一つ一つをゆっくりと眺めることはできなかったが,その中の一つはさすがに我が目を惹いた。

銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

と彫られている。これは山上憶良の

銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

万葉集巻五・803

だなと言うことはさすがにわかったが、その横に彫られている文字が私にはどうも判読できなかったのでどなたの筆によるものかは確認できなかった。

陸奥の地と山上憶良と、いったいどんな関係があるんだろう?・・・(「金」つながりだよね)・・・などと考えながら歩いているうちに私は車を置かせてもらっている天平ろまん館にたどり着く。ホームページをごらんになればわかるとおり、このような地にはありがちの施設ではあるが・・・食堂と土産物屋と資料室とが併設されている。

私が神社に行っている間に、この度に同行した息子がこの資料室に入っていたのだが・・・私が神社の方から帰ってきても息子は資料室からは出てこない。結構長い時間かけて黄金山神社で金運アップを願っていたはずなのだが、息子はなかなか出てこない。そんなに広い資料室ではないので、すぐに出てくるだろうと思っていたのだが・・・待つこと15分。私は神社参拝に30分は費やしていたかと思うので、45分ほど息子は資料室にいたことがある。学校の教室2つ分ほどの資料館に何でそんなに時間がかかったのかをたずねると・・・面白かった、とても興味深かった・・・との返事。これは是非とも見てみたいとは思ったが、宿に約束した時間は迫っている。泣く泣く(笑)私は天平ろまん館を後にした。

そうそう、これを忘れてはならない。息子が資料室を出てくるまでの時間、私は併設された土産物屋をふらついていたのだが、この土産物屋に入ったとたんに目についたのが・・・これ。

金ピカの大仏さま(?)である。これはちょいと違うだろうと実際の大仏さまをよく知る私は苦笑したが、さりとてこの金ピカのお姿にはなにかしら金運アップにつながるオーラのようなものを感じた。いつか携帯の待ち受け画面にしようと密かに思っている。

天平ろまん館を後にした私たちは宿にたどり着く。部屋に入るなりむかえてくれたのは

ウミネコさんである。これで三度目の宿泊となるこの宿だが、あの2011・3/11の昏く冷たい波濤に襲われた後も、このお迎えだけは少しも変わっていない。

すめろぎの御代栄へむと・・・下” への8件のフィードバック

  1.  私のHPにリンクを貼っていただき、ありがとうございます。

     もう20年以上前に書いたページですね。見やすくできていると思います。←自画自賛。(^_^;

     最近はブログばかりでHPの方はちっとも更新しておらず、反省しました。定年退職したのに暇になりません。(^_^;

     さて、今回のブログ、あちこち大変に興味深く拝読しました。

     小田郡のこと、母校の科学部の生徒さんと顧問の先生のこと、山田孝雄のこと、いずれも心惹かれました。

     そして、ご子息様のこと、どこに興味を持たれたのか気になります。資料室の中身を想像するに、やはり天平の産金のことですよね。

     また、ウミネコのこと。こんなに近くまで来るのですね。ゴハンのお裾分けに預かる場合もあるのでしょうかね。

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    1. 源さんへ

      >見やすくできていると思います

      いやあ、本当に役に立ちました。ありがとうございます。

      黄金山神社は以前帰郷した時も近くを通ったんですが、あちらこちら行かねばならないところがあって、ゆけずじまい。次こそはと心に決めていたんです。

      山間の、静かな落ち着いたお宮さんでした。

      資料館の方は金の産出についてと大仏建立にかかわってのものだったということでした。ぜひとも・・・と思ったんですが、時間的に苦しいものがあっりましたので今回は諦めました。次の機会があるでしょう

      >ゴハンのお裾分けに預かる・・・

      餌やりをするお客さんもいるんだとか・・・でも、間違って窓から入ってきたりしたら、と思うと窓は開けられませんねええ。

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  2. 大変ご無沙汰をしております。
    身辺に劇的な変化がございまして、隣県から大伴家持が赴任した越の国に引越して居ります。

    改元の際にはこちらの方でも万葉集からと言うことで大騒ぎでありましたが、私はこちらのブログの事をぼんやり思い出しておりました。

    また復活をしようと思っておりますので、どうぞ宜しくお付き合い下さい。

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    1. Noriさんへ

      いやあ、本当にお久しぶりですねえ。お元気にされてましたでしょうか。

      >隣県から大伴家持が赴任した越の国に引越して居ります

      越の国はいいですねえ。2度ほど行ったことがありますがとても気に入って場所です。
      できれば、人生の一時期を過ごしたいと思ってるくらいなんですが・・・無理だろうなあ・・・

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  3.  黄金山神社(最初に「小金山」と変換されました(笑))、いいお社ですね。成金趣味で
    ないところが気に入りました。お参りすれば「小金」に恵まれるかな?

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    1. 薄氷堂さんへ

      最近なんの加減か、コメントが入ったとの通知メールが迷惑メールの方に振り分けられるようになっちゃいまして、今回のメールに気づくのが遅くなり、返事が遅れましたこと、申し訳ありませんでした。

      黄金山神社は山峡のとてもひっそりとした場所にある、いい神社ですた。参道の周辺に広がる庭園もよく整備されていましてすがすがしくお参りができます。なお、今回のお参りの際には私の身の回りの人々の金運についてもお願いしてきましたので、そのうち薄氷堂さんにもきっと御利益があると思います(笑)

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  4. 昔、マンガ偉人伝を手掛けたときに、奈良の大仏の最後最大の課題が
    金だったと知りました。
    そして、土壇場で金が出たということになって
    ドラマチックに物語を仕掛けた記憶があります。

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    1. 根岸さんへ

      なにせあんだけの大きな仏様ですからね。国内で金が産出しないとなれば、当時の運搬方法を考えても充分な金を手に入れることは難しかったのかもしれませんね。
      もっとも、そのときこの地でとれた金の量では頭部のみのメッキしかできず、後はやはり輸入品に頼ったんじゃないかなんて説もありますが、その後の奥州藤原氏の栄華がこの宮城県北の金を基盤にしていたと言われているわけですから、後々にはそれなりの産出量があったんでしょうね。そうなると・・・平泉の金色堂あたりの話が東方見聞録でヨーロッパに伝わり、それがコロンブスの新大陸発見につながったことを考えると、この大仏建立の際のこの出来事は思っている以上に世界を動かしたことになりますね。

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