すめろぎの御代栄へむと・・・中

さあて、「万葉集の北限の地」と「海ゆかば」と「大仏」・・・いかなる関係になるのか。まあ、これも知る人は知っている・・・そんな話ではあるが、せっかく、そのゆかりの地まで行ったのだから、少々語らわせてもらわなければもったいない。次回は・・・そんなお話を・・・・

前回はこんな感じで終わっていた。だから、今回は「万葉集の北限の地」と「海ゆかば」と「大仏」との関係をお話ししなければならない。

まず、「海ゆかば」と「大仏(もちろん、私が言う以上は奈良の大仏だよ)」との関係である。大仏建立の流れについては前回示しておいたので、時系列的なところはそちらを参考にしてほしいが、ともあれ聖武天皇の発願によって大仏の建立は始まった。そこに予算という概念があったのかどうかわからないが、結果として、当時のこの国の人口の半分に近い、のべ260万人の人足を動員し、約4657億円に及ぶ費用を費やしての・・・国家を揺るがすほどの大事業は始められた。

様々な苦難を越えて、着々と作業は進む・・・けれども、そこに一つの懸念があった。それは・・・「金」である。

今私たちがお目にかかっている大仏様からは想像もできないが、建立当時の大仏様は、その全身が「金」に覆われていた。これほどの巨躯を覆うためには、いったいどれほどの「金」が必要となるのか・・・おそらく、この巨大な御仏の設計を担当したもの(大仏師 国中連公麻呂・鋳師 高市大国・高市真麿)は頭を抱えたに違いない。そして・・・その思いは、この御仏を発願した主である聖武天皇も同じであった。そんな様子が大伴家持の「賀陸奥國出金詔書歌」にも詠まれている。

・・・我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに・・・

・・・わが大君が人々を仏の道にお導きになり、善いわざをお始めになって、何かと黄金が十分にあればとひそかに御心を砕いておられたおりもおり・・・

万葉集・巻十八・4094

なぜならば・・・当時、日本では金が産出されてはおらず、輸入に頼っていた。その値たるや・・・・計り知れないものがあっただろう。しかも、輸送方法は危険を伴う海路しかない・・・聖武天皇がその御心をお痛めになるのはやむを得ないことであった。

そんな折である。遠い・・・みちのくの地において金が発見されたのだ・・・

鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ

東の果ての陸奥の、小田という所の山に黄金があると奏上してきたものだから、御心も晴れ晴れとなさり

と前述の家持の歌には詠まれている。天皇の喜びようはひとかたならぬものがあった。さっそく改元である。その年内に天平感宝・天平勝宝と立て続けに元号を変えた。むろん感宝・勝宝の「宝」の文字は、この度に発見された黄金を指すこと想像に難くない。

この年・・・天平21年→天平勝宝(天平感宝)1年の2月22日、

陸奥みちのおく国 始めて黄金くがねたてまつ

と続日本紀には記されている。そして4月、聖武天皇は東大寺に行幸し、たちばなの諸兄もろえをして以下のようにこの慶事を大仏に報告する。

ひむかしの方陸奥国守従五位上百済くだらのこにきし敬福きょうふくい、部内くにのうち少田をだ郡に黄金在りとまをしてたてまつれり。

続日本紀・天平勝宝元年4月(宣命・第12詔)

続けて石上乙麻呂が大伴家持によって、先の橘諸兄の読んだものと合わせて「陸奥國出金詔書」呼ばれた宣命(第13詔)を読み上げる。宣命は続日本紀中で最長のもので、金の産出がいかに聖武天皇にとってうれしいものであったかがうかがわれる。

そして・・・この慶事を祝し、多くの官人たちが加叙された。われらが大伴家持の例外ではない。それまでの従五位下から従五位上への昇進があったのだ。しかも家持にとってうれしかったのはそれだけではない。この「陸奥國出金詔書」の一節をちょいと引用してみよう。

・・・大伴・佐伯宿祢は、常も云はく、天皇すめらみかど守り仕へまつる、事顧みなき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ来らく、「海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、王のへにこそ死なめ、のどには死なじ」と、云ひ来る人等となも聞こし召す。ここもち遠天皇とほすめろきの御世を始めて今が御世に当りても、内兵うちのいくさと心の中のことはなもつかはす・・・

続日本紀・天平勝宝元年4月(宣命・第13詔)

続日本紀には全部で62の宣命が収録されているが、その中でっもっとも長い宣命のほんの一部である。しかしながら、ほんの一部であったとはしても、この一節は、大伴家持をして感涙せしむるに十分な内容である。

・・・大伴・佐伯の両氏は大昔から自分のことは顧みずに天皇家に仕え朝廷を守ってきたてきており、しかもその心意気や「海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、王のへにこそ死なめ、のどには死なじ」と思い定めて、我が御世(聖武天皇の御世)にあっても、内兵として仕えている・・・

なんて言っているものだから、古くから軍事にて天皇家を支え続けてきた名門豪族の大伴家の人間としては、うれしい限りの一言であったことは簡単に想像できる。豪族の官僚化が進みつつあったこの時代、大伴の家がその官僚化に乗り遅れつつあったことは家持もうすうすは感じていたであろう。だからこそこの一節は彼にとってたまらないものがあったに違いない。そしてその感激を自らの作品の中でも最大の作に仕上げた。それが・・・「賀陸奥國出金詔書歌一首」であった。その一節が

・・・海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ・・・

である。そう・・・「海ゆかば」だ。「賀陸奥國出金詔書」では「のどには死なじ」とあるのが、ここでは「かへり見はせじ」と言い換えているが、これについては声調の問題であるとか、「賀陸奥國出金詔書」に「事顧みなき人等にあれば」を受けたものだとか言われている。そのあたりのことについて私は何とも言えないが、この一節が大伴の家のよって立つ名誉と誇りを歌ったものであることは疑えないであろう。

なぜこの一節がかの忌まわしき時代に、あのような重々しいメロディーをつけられ「海ゆかば」として歌われるようになったのか・・・それは、国民すべてに対して「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」ことを強制するものであった。

さて、そのような歌われ方・・・原作者である家持はどのように感じたであろうか・・・

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