すめろぎの御代栄へむと・・・上

こんな張り紙のある施設に行ってきた。

手作り感満載の・・・ちょっとうがった目で見れば、印刷物の文字を切り貼りした、かつての脅迫文のような印象がないでもないが、その施設の名は

天平ろまん館

詳細はリンク先の、当施設のホームパージをご覧いただきたいが、それにしても「万葉集 北限の地」とは、なんとも興味深い物言いではないか。場所は

宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金山1-3

黄金山とはちょいと気の惹かれる地名ではあるが、それにしてもこの地がなにゆえ「万葉集 北限の地」なのか。ご存知の方も多いのではと思うが、ちょいと記しておきたい。

皆さんの・・・それも少々ご年配の皆さんの中には「う~み~ゆ~か~ば~~」と歌い始められる沈鬱な歌を口ずさむことができる方も少なくないとは思うが・・・その作詞者は万葉集の編者ともいわれている大伴家持であることが意識されることはそんなに多くはないだろう。この歌が先の大戦の折に戦意高揚のために用いられたことから、「軍歌」との認識がなされており、私もそんな認識があることは否めない事実だとは思っている。が、それにしても・・・平城の御代の人、大伴家持が、なんだって昭和の御代の軍歌の作詞者なんかに・・・

まあ、その詩の中身は「我が身も顧みずに天皇にお仕え申し上げる臣民」の心のありようを歌ったものであるから、この詩を「軍歌」の歌詞とした昭和の御代の人々も分からないではない。

東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師、信時潔(のぶとき・きよし)が曲をつけたのが「海行かば」です。1937(昭和12)年、日本放送協会が国民精神総動員強調週間のキャンペーンとして、信時に作曲依頼したものです。

とは「しんぶん赤旗2007/11/17」の説明であるが、事実関係としておおむねここにある通りかと思う。

ならば・・・大伴家持に「国民精神総動員」なんて意図があってこの詩を書いたか、というと当然のことながらそうではない。それに「万葉集 北限の地」にある施設のことを書いていたのに、なんだって話が急に「海ゆかば」になってしまうんだとお思いになる方もいらっしゃるかとも思う。けれども、この「万葉集 北限の地」にある施設と「海ゆかば」は全く無関係ではないのだ。

さあて、本題に入ろう。時は天平の15年(743)。時の天皇、聖武天皇は大仏建立の詔を発した。はじめ近江国紫香楽宮(当時、都はこの地にあった)において大仏の建立を始めたが、745年、天皇が都を平城に戻すにあたって、大仏も平城の地に作るように変更された。場所は若草山麓に創建された金鐘寺、そう・・・今東大寺のある場所である。以下、聖武天皇が大仏の建立を決心してから改元に至るまでの流れである。

天平12年(740)
聖武天皇、難波への行幸のさい河内国知識寺で盧舎那仏像を拝す。自らも盧舎那仏像を造ること決心。

天平13年(741年)
聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔。

天平15年(743)
聖武天皇、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔。

天平16年(744年)
紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の基礎工事を始める。

天平17年(745)
5年ぶりに平城京に戻る。平城、若草山の麓にで改めて大仏造立を開始

天平18年(746)
聖武天皇、は金鐘寺に行幸。盧舎那仏の燃灯供養を行う。大仏鋳造のための原型が完成か?

天平19年(747)
大仏の鋳造開始。

天平勝宝元年(749)
大仏の鋳造終了。

天平勝宝4年(752日)
大仏開眼。

さあて、「万葉集の北限の地」と「海ゆかば」と「大仏」・・・いかなる関係になるのか。まあ、これも知る人は知っている・・・そんな話ではあるが、せっかく、そのゆかりの地まで行ったのだから、少々語らわせてもらわなければもったいない。次回は・・・そんなお話を・・・・

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