萬葉一日旅行 2019・・・8

前回の記事で、小子部ちいさこべ門の発掘調査によってそれまで八町四方と考えられていた平城宮の東に張り出し部分があることが明らかになってきたことを述べた。

これがその東に伸びていたと思われる外塀の南面の復元物であるが、その張り出し部分はその後の調査により南北750m、東西250mの広大な地域で明らかになることが分かってきた。この場所に存したと考えられているのが続日本紀に記された「東宮」や「東院」と呼ばれる場所があった。東宮という語については官職要解に

皇太子は東宮とも、春宮ともかいて、トウグウと申して居るが、是は職原抄述解に東宮は御座所を申し、春宮は官舎を申したのだというて居るが如く、もとは、皇太子の別稱ではなかつたのである。まづ東宮は、令義解に、「太子之所居也、」とあって、皇太子の御座所が、皇居の東にあつたから申したので・・・・

官職要解 修訂 1926年 和田英松

とあるように本来は皇太子の居住する地をさして言うものであったが、此が後に混用されるようになったと考えられる。引用文中「東宮とも、春宮ともかいて、トウグウと申して」とあるが、これは同じく官職要解が令集解の、「四時氣自東發、卽春准此故爲、東宮春宮其義無別也、」という下りをひいて「東と春とは、義も通じて居るので・・・」と断じているが如く、五行において「東」は「春」を示す方角であったことからの転用であると思われる。東院という語もまた此に倣って考えればよかろうと思う。

さて、そこに皇太子の居所があって「東宮」「東院」と呼ばれていたことが分かるが、本来ならば宮城は八町四方であるべきもの。この東西250m、南北750mの張り出し部分がそこに存するのはいかにも不体裁であることは否めない。なぜ・・・このようなことになったのか。

そういえば・・・平城京自体も東に大きく張り出した外京を持っている。これもまた不体裁と言えば不体裁である。

そこには藤原氏の思惑がはたらいていたとの言説がもっぱらである。

平城京の外京部を見渡したとこそこで目につく建造物は興福寺、元興寺である(東大寺は平城遷都の後しばらくたってのものであるからここでは考察の対象外である)。かつて山階やましな寺、厩坂うまやさか寺と呼ばれた寺院を平城遷都の際に今ある場所に移して、興福寺と名付けたのは藤原不比等である。興福寺は藤原氏の氏寺として以降興隆を続けたことはご存じの通りである。

そして、その興福寺から切り立った崖の下に見下ろされるように位置しているのが元興寺。元興寺はもとは法興寺(後の飛鳥寺)といい、蘇我氏の氏寺で会った寺院である。藤原氏と蘇我氏の浅からぬ関係を見るとき、この位置関係は何かしらを感じさせるものがあるとの見方も一部ではなされているようだ(これはいくらなんでも考えすぎだろうと私は思う)。

そして・・・この二つの寺院の間を抜けてまっすぐに東へ進み御蓋みかさ山に突き当たった場所に藤原氏の氏神である春日大社はある。春日大社は768年藤原永手が称徳天皇の勅命により、その中腹に社殿を造営して千葉県香取から経津主命、大阪府枚岡から天児屋根命あめのこやねのみこと比売神ひめがみを招いてまつったのがその始まりとされるが、その前段階として、平城遷都の際に、茨城県鹿島から武甕槌命たけみかつちのみことを御蓋山の頂である浮雲峰に迎えたことがある。元々鹿島の地方神であった武甕槌神ではあったが、その近辺にも勢力を持っていた藤原氏の前身である中臣氏の信仰の対象でもあったことから、平城遷都の際に藤原氏が御蓋山に勧請したのだとも言われている。

こうした事実があってか、平城京外京に藤原氏の影がちらついているかが窺えるという考えをあちらこちらで目することができる(なんか藤原氏の陰謀めいた話だよね)。

平城宮の張り出し部分については、そこに隣接していたのが藤原不比等の邸宅であったことはつとに知られている事実である。そして・・・そのころに皇太子であって東宮に居住していたのは、不比等の娘、宮子が文武天皇との間に生んだ首皇子おびとのみこ。文武天皇の崩御の際にまだ幼子(7歳)であった首皇子が成年するまでの間二人の女帝(元明・元正)が中継ぎとして即位し、そのときを待った。この間、祖父である不比等は、その孫が立派に成年するまで充分な庇護を与えることができるよう、平城宮の東の部分を自分の邸宅よりに張り出させたのだという。

まあ、こんなことは当日ご案内くださったどの先生もおっしゃらなかったし、私とて少々疑わしく感じている部分もあるので(ただし後者の平城宮の張り出しについてはちょいとそうかもしれないと思っている)、これ以上深入りしないでおこう。

さて、本筋に戻ろう。

その東に平城宮が張り出しており、そこが東宮であることが推定された以上、発掘調査はさらに続けられなければならない。そして、1967年、この地に壮大な庭園の遺跡が発見された。それまで、具体的にはそのありようが全く想像できなかった奈良時代の庭園の構造が、このときの調査を通じて明らかになった。調査によれば東西80m、南北100mの敷地の中央に複雑な形状の池を配し、その周囲に建物が配されていたといい、時代とともに池は造り替えられ、それに伴い幾度も建物が建て替えられたらしいという。おそらくは朱塗りの橋をはじめ、築山の石組、中島、出島の先端に景石が配されるなど、のちの平安以降の庭園の原形がそこには窺えるのだという。そして、それらの調査結果を基に復原したものが現在の東院庭園である。

ここでくだくだしく私のつたない記憶をたどるよりも、下に示すURLから東院庭園のパンフレットをダウンロードできるのでそちらを見て頂いた方が確かだと思う。

http://heijo-kyo.com/map/toe/

ただ、ここを見学したときに印象的だったのがこの眺め。

向こうに見えるのは、ミナーラと呼ばれる商業施設。昨年度新しくオープンした施設である。1989年、「奈良最大の本格的都市型百貨店」といううたい文句でこの地にそごう24号店が建設された。そごうの創始者でもある十合伊兵衛の出身地が奈良(橿原市十市)だったこともあって、もともと豪華なつくりの店舗の多か中でも、とりわけ豪華なつくりの店舗であったようだ。

ただ・・・このそごう奈良店は他のすべての百貨店と比べたとき、ひとつ大きな相違点があった。

デパ地下の存在である。そこを巡ることが百貨店へ行く楽しみの一つとしている方も少なくないと思うが、このそごう奈良店には地下店舗は存在せず、食料品売り場は1階に設けられていた。他の百貨店をイメージして入店された方はかなり面食らったと思う。

計画段階では地下2階、地上11階建であったものが、なぜこのようなことになったのかというと・・・

それは建設に先立っての発掘調査の際のことである。この場所は平城宮の南東部に隣接し、奈良時代の高級貴族の邸宅があったことが予想されたことから、奈良文化財研究所の発掘調査が行われていたのだが、そこから4万点に及ぶ大量の木簡(最終的には5万枚を越えるとも)が発見され、その中に「長屋親王」と記された木簡があったことから、この地が長屋王の邸宅跡であったことが判明した。となれば、そんな場所に地下施設を作ったりすれば、その遺構は跡形もなく掘り返されてしまう。どうあっても、そんなことは許されるわけはない。

てなわけで、1階のフロアーに食料品売り場と婦人用品・化粧品の売り場が並んで配置されるという世にも珍妙な売り場構造が生じたというわけだ。

この、そごう奈良店は2000年に閉店し、その後イトーヨーカドーを経て現在のミナーラと相成ったわけであるが、そこにかつて長屋王の邸宅があったという事実は変わらない。

あくまで可能性の問題としてだが、この東院庭園の東隣が藤原不比等邸であったということは、その長子であり、後に長屋王と鋭く対立し、長屋王の変の首謀者と目される武智麻呂は720年の不比等死去の後、ここで暮らしていた可能性はゼロではない。こう書くと皇后宮として、光明皇后が暮らしていたと記録にあるのではないか、のちに法華寺になったのではないあ、何ておっしゃる向きがあるかもしれないが、皇后宮となったのはのちのこと。不比等が他界してから、そこまでの間についてはよくわかっていない。それに、養老律令の規定(戸令応分条)によれば、父親の遺産の相続に関して、家は嫡子のものとなるのが本筋であるようだったので、この不比等邸はとにかくいったんは武智麻呂の所有物になったという可能性は高い。

まあ、あくまでも可能性がゼロではないというレベルではあるが、現在のところ武智麻呂の邸宅がどこにあったか分からない以上、旧不比等邸が武智麻呂邸であったとしても少しも変ではない。

可能性がゼロではないから、・・・とも考えられる、なんて論法は、巷にあふれる怪しげな著作物でよく使われる論法ではあるが、仮にそうではなかったとしても、この事件にかかわっていたとされる藤原の兄弟たちは、その立場上この近辺に暮らしていたと思われるから、あの奈良時代を揺るがすような、しかも後のこの国の歴史を左右するような大事件は、こんな狭い範囲の中で起きていたのかと思うと、かなり感慨深いものがある。

追記

こんなことを書いていたら、以下のようなニュースに接した。

奈良・平城京跡の邸宅 有力貴族の屋敷か 敷地6万1000平方メートル

毎日新聞7月19日

さてさて、どなたのお宅なのか・・・楽しみなことである。なんとなく、市的には房前さんのお宅か・・・なんて思っちゃうんだけど・・・これもまた妄想・・・


追記

なんてことを書いていた記事をアップした後、次の書物が我が本棚にあることを思い出した。

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慌てて読み返す・・・なんとまあ、私の妄想のいい加減なこと。上記の書によれば・・・不比等邸はその死後、次男の房前のもとにわたったのだという。父不比等の職掌に最も近い役割(首皇子の補佐)を果たしていたことから、その職務遂行のためには、この場所に住むことが望ましいという理由からだ。ほかに佐保の方に(すなわち今回発掘されたあたり)にも、もう一つ邸宅を持っていたらしい。

それでは長子の武智麻呂は・・・どこに・・・

武智麻呂は南卿といわれていた。そのいわれは宮殿の南に住んでいたからだといわれている。ということは・・・と、著者は想像する。あくまでもその候補ではあるが・・・左京三条二坊の地を・・・

この地は、長屋王邸の南はす向かいといったような場所で、言い換えれば長屋王は不比等の旧邸(房前邸)と武智麻呂邸に挟まれた場所であったといってよい。さらにはこれも最近の発掘で分かったところではあるが長屋王邸の北に隣接する地には・・・不比等の4兄弟の末子、麻呂の家があったという。

先に書いた内容がいかにいい加減なものであったかを思い知らされるような結果と相成ったが、まあ、これもご愛敬。削除せずそのまま残しておくことで、自らへの戒めとしたい。

まあ、そうはいっても

あの奈良時代を揺るがすような、しかも後のこの国の歴史を左右するような大事件は、こんな狭い範囲の中で起きていたのかと思うと、かなり感慨深いものがある。

という事実はさほど変わらない。

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