萬葉一日旅行 2019・・・7

前回の更新が6月16日だったから、もう一月ほど間が空いてしまった。ちょいと週末に野暮用が続き、家でパソコンに向かうことができなかったからだ。けれども・・・連載中の萬葉一日旅行は、やっと昼食休憩を迎えたところで中断しており、グズグズしているわけにはいかない。ほうっておくと、5月の連休明けにあったこの催しについて年が明けてまでお付き合いしていただくようになってしまう。できれば・・・今日、少なくとも次の記事では最終目的地にたどり着くことにしたい・・・というような思いで今日は書き始めた。

朱雀門での説明が終わった後、一同は昼食休憩。朱雀門前の広場には様々な施設が整えられており、昼食をとる場所には不自由はしない。くわえて、ちょいと歩けば有名なチエーン店のラーメン屋や回転ずしもある。私は広場にある飲食店には10日程前に言ったばかりだったので、広場から道路(二条大路)を一つ隔てた回転ずしへ行くことにした。気温が30度を超えたこの日、生ビールは必須である。

昼食が終われば再び朱雀門前に集合。そのまま東にまっすぐ進む。・・・ということは、奈良の御代であるならば平城宮をかこむ塀沿いに東に進んでいることになる。


目指したのは第二次大極殿の正門ともいえる壬生門の先にある小子部門。

ご説明は本日の総合司会(笑)である奈良大学の上野先生である。上の平城宮の略図を見ていただければ、東に張り出した部分があることがお分かりだと思う。平城京のほうは早くから東への張り出しは知られていたが、なんでも平城宮のほうは、かつて八町四方のきちんとした方形であると考えられていたらしい。その理解が一変したのは、この小子部門などの発掘調査がきっかけになったのだという。

ということで、下の地図を見てもらいたい。

地図下部の中央から北上し、平城京の少し手前で東に大きく蛇行し、ちょっとして再び北上している道がある。奈良を南北に貫く主要道の国道24号線のバイパス部である。昭和39年、課題であった奈良市街地の渋滞の緩和のため、当時は方形と考えられていた平城宮の東縁に沿ったルートが考えられた。平城宮東一坊大路沿いに・・・というか、東一坊大路の上に、現代の大路を走らせるという計画である。かつての「大路」上を走るということもあって、その道路沿いの整備計画も同時に立ち上がっていた。すなわち、東一坊大路復元計画である。

となると、まず始まるのは、発掘調査である。これが、奈良という場所の特異性である。少しでも疑わしい場所であれば、こういった工事が始まるときには発掘調査が義務付けられている(だから、これが奈良のインフラ等の整備を遅らせていると眉をひそめている人々も少なからずいらっしゃる)。

そして・・・調査の対象になったのは当然、平城宮の東縁部である。

これは、奈良国立文化財研究所の「平城宮第37.39.40.41次発掘調査概報」の一節、39次調査の冒頭部分である。

調査の対象になったのは平城宮「東縁の南」にあったとされる小子部門。それまでの推定通りそこが平城宮の東縁にあったとすれば、その門は東に向かって開かれているはずのものであった。ところが、いざ調査を始めると、門は南に向かって開かれているではないか・・・

上の図の右下、「第39次」とある部分がそうである。そして・・・この事実は平城宮を囲む塀がさらに東へと延びていることを想像させる。
その想像をさらにたくましく発展させて復元されたのが、この塀である。むろん、これが単なる創造ではなく厳密な研究成果の結実であることは言うまでもない。

話を元に戻そう。

これだけのものがあることが分かってきたならば、そこにバイパスを通すことなど言語道断である。その反対運動が盛り上がることは必然である。

これらの発掘の成果が明らかになるにつれ全国の有識者の問で東院の保存運動がはじま り,平城宮を分断せずに保存するようにとの声が各地でおこった。 1966年に「奈良バイパスの平城宮跡通過に反対する協議会」が結成され ,1967年 4月から 5月にかけて相継いで日本建築学会 ,関西文化財保存協議会,日本考古学協会,美術史学会等がバイパス通過反対と早急に保存対策をたてるようにとの声明を公表 した。

平城宮発掘調査報告 Ⅵ

結果、昭和43年、国道24号線バイパスを上の地図のような平城宮を迂回するルートを通すことが国会において決定された。

・・・と、

今日、少なくとも次の記事では最終目的地にたどり着くことにしたい・・・というような思いで今日は書き始めた。

てなことを言って書き始めたこの一文であるが、平城宮の保存運動やら何やらについて調べを入れているうちにもう4日もたってしまった。最終目的地にたどり着くまで記事をアップせずにいたらいつのことになるか分からないので、とりあえず、ここまでで自分を堪忍しておくことにする。

萬葉一日旅行 2019・・・7” への4件のフィードバック

  1.  平城京の東の張出は明確ですが、平城宮の方はあまり意識していませんでした。
     確かに出っ張っていますね。

     藤原京が、お手本の中国の都城と違うぞということで、平城京を建造したものと理解していましたが、かなり柔軟に出っ張らせちゃうんですね。(^_^)

     国道のルートにはそういう背景があったのですね。これは不勉強で知りませんでした。
     当時の関係各位に、遺跡保存についてのきちんとした理解のあったことが嬉しいです。昨今流行の「役に立つか否か」で物事が決められてしまったらたまりません。

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    1. 源さんへ

      私のブログではコメントを頂いた場合に、私自身のブログから、知らせがメールで届くようになっているのですが、なぜか今回の知らせのメールが迷惑メールにより分けられてしまいました。私のブログが何かしら怪しいサイトと勘違いされたのでしょうか(笑)

      ということで、せっかく頂いたコメントに気がつくのが遅くなりお返事が遅れてしまいました。まことに申し訳ありません。

      今回のブログではいろんな方のご尽力のおかげで平城宮ならびに平城京が残されてきたこと、あらためて思い知りました。実は上野先生には万葉学会の前代表のお二人S先生とH先生とが43年の際の保存運動に加わっておられたとのご説明を頂きました。年齢的にはちょうど大学生の自分で、学生たちも様々な運動に参加していた自分ですから、さもありなん・・・と思っても居たのですが、私のかなり以前のおぼつかない記憶によれば、H先生の父君の法のH先生(すなわち私の先の師匠)だったようになっているので・・・そのあたり、自信が持てずに本文でお話しすることはやめておきました。

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  2. 三友亭主人さん

     いえいえ、私こそ、コメントを付けたタイミングが遅くて、「8」をアップされた後でしたし。

     H先生、どちらなんでしょうねぇ。上野先生の思い違いのような気もします。先代の(というのもヘンですけど(^_^))H先生かもしれませんね。

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  3. 源さんへ

    いやあ、このコメントのお知らせメールも迷惑メールのフォルダーに振り分けられてしまいました。どうしたらいいんでしょうねえ・・・グーグル先生に聞いてみたんですが、なんか面倒くさそうなので、しばらくの間はこまめに迷惑フォルダーの方を確認しようと思います。

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