大極殿院の復元現場を後にした私たちは、広大な朝堂の跡地を抜けて復元された朱雀門へと向かう。
なぜだか知らぬがこのときは朱雀門の写真を撮り忘れていたので、以前とっておいたものでここは勘弁してもらうこととする。朱雀門は平城宮の正門で、平城京のメインストリートである朱雀大路に面して聳え立っている。平城京の正門たる羅城門を抜けると、この朱雀大路はおよそ75mの道幅をもってまっすぐに北に延びて、この朱雀門へと突き当たる。
この門の前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人が集まって歌垣も行われたという。
天皇朱雀門に御し、歌垣を覧す。男女二百四拾(原文は一に縦棒が4本)余人。五品已上の風流有る者、皆其の中に交雑る・・・都の中の士女をして縦に観せしむ。歓びを極めて罷む。歌垣を奉れる男女等に禄を賜ふこと差有り。
続日本紀天平6年2月
さぞかし華やかで、にぎやかな催しであったことが髣髴される。
また正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもあったらしい。
陸奥、出羽の蝦夷、并せて南の嶋の奄美、夜久、度感、信覚、球美等、来朝きて各方物を貢る。其の儀、朱雀門の左右に皷吹、騎兵陣列す。元会の日に鉦鼓を用ゐること是より始まる。
続日本紀霊亀元年正月
左右には高さ6mの築地がめぐり、およそ130haの広さの平城宮をとりかこんでいた。なお朱雀門は常に衛士たちによって守られ、普段は閉ざされていることが多かったそうで、普段官人たちはこれ以外の門を利用していたのだという。
さて・・・この門の復元にあたっても、その構造を物語る直接的資料はない。だから平安宮朱雀門が二重門であることから、平城京のそれもまた二重門とし、基本的な構造は、現存するこの時期唯一の構造物である法隆寺中門に倣ったのだという。また、細部の様式についてはほぼ同時期の薬師寺東塔も参考にしたのだという。それ以外にも細部において参考にした建造物は東大寺転害門・海龍王寺五重小塔・四天王寺講堂出土品・薬師寺出土品、唐招提寺金堂などあまたの遺物を勘案し、それを現実のものとしてこの復元朱雀門は今我々の眼前にある。その労苦たるや・・・頭の下がるばかりの思いである。
さて、この朱雀門においてお話をしてくださったのは東京のT大学のT先生。
先生は大伴家持の
柳黛を攀ぢて京師を思ふ歌
春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば京の 大路思ほゆ
大伴家持・万葉集巻19・四一四二
春の日の陽の光に芽をふくらませた柳の枝を手に取って、つくづくと見ていると、京の大路が思い起こされる。
という歌について、説明してくださった。
これは題詞でもわかるように、都にあって詠んだ歌ではない。大伴家持は天平18年(746)6月に越中守に任じられ、8月に着任。それから天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年の間、越中の国司としてその任地にあったが、この歌は天平勝宝2年の3月の2日の作。家持が京を離れて4年目に入っての歌だ。越中の国の国司という大任を拝命し、意気揚々と任地に赴いた家持ではあったが、そろそろ都が恋しくなり始めたようだ。
「柳黛」とは柳の葉のこと。その形が当時の女性の眉に似ていることからの表現であるが、平城京の朱雀大路には柳の並木があったというから、柳の葉を見ることと京に思いをはせることとは家持にとってごくごく自然な発想である。また題詞の「柳黛」との語から、大路を行き交う都の女たちの美しい眉目を想起させる歌にもなっている。つまり・・・家持は、ぼちぼち都のおねえちゃんたちが恋しくなってきたようだ。
こんなお話を「フムフム」と聞き終わった後、本日の総合司会の奈良大学の上野先生が・・・
私は若いころからT先生の学会発表をすべて聞いていますが・・・家持の人生において調子のよい時期の歌について発表するときは、いかにも楽しそうに・・・家持があまり面白くない日々を過ごしている頃の作品について発表するときには、いかにもつまらなそうに(いや・・・「つらそうに」だったかな?)お話されるんですよね・・・
とおっしゃった。T先生は苦笑い・・・しておられた。
> 家持の人生において調子のよい時期の歌について発表するときは、いかにも楽しそうに・・・
人間味あふれる、とてもいいお話ですね。感服いたしました。
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薄氷堂さんへ
T先生は、ずう~っと大伴家持を追いかけていらっしゃるお方。
それだけ・・・思い入れが深いんでしょね~
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