大極殿の次の訪れたのは大極殿院南門の前。
現在、再建工事中でご覧の門はその現場の大いに描かれた再現予想図である。この門が再現された後は、周囲を廻廊で取り囲み、大極殿院全体の再現を試みる計画なんだそうだ。
大極殿院とは・・・以下を参考にしていただければ幸いであるが・・・
https://www.heijo-park.go.jp/area/daigokuden/
ところで・・・上の復元図を見たときに「は・て・な」とお感じになった方もいらっしゃるかとも思われるので一言・・・
この復元図では南門は、上の写真のような高殿ではなく、どちらかといえば平板な平屋建てになっており、その両脇に東西の高殿(楼)が描かれている。ところが、上の写真の現場の覆いに描かれた南門はかなり豪壮な高殿になっている。事実、かなり以前(2012年)に撮った写真では
この時期、あくまでも仮のものだが大極殿院を取り囲む廻廊が作られていた。はるかに見える朱雀門の下に廻廊の切れ目のような貧相な門が見える。これは復元図の形に近い。
しかるに、一番上の現在復元中の南門は・・・さて、ここで上にお示ししたリンク先にある復元予定模型を見ていただきたい。
こちらは・・・上の写真のような高殿となっており現状との齟齬はない。
ここで、今回の一日旅行のメインの解説者である奈良大学の上野先生(あまりにも有名なお方であるから、もう「N大学のU先生」などとぼかす必要もあるまい)のご解説。上野先生は上の復元図についてはお触れになることはなかったが、先生の以下のお話を聞いて、私の疑問は氷解した。
なんでも先生は平城宮の復元工事にあたって様々な場面で意見を問われる立場にいらっしゃるらしい。だから、そんな会議に参加する機会も多いとのこと。そして・・・そこでは実際に工事にあたる建築の側の方々と、平城宮を調査し、古代の全体像を明らかにしてきた歴史・考古学の側の方々の意見が分かれることがしばしばあるのだそうだ。
基本的には、掘り起こされた柱の跡や礎石から知りうるのはそこに立った建物の間取りのみである。だから、上にどのような建物が建っていたか、そこからは詳細にはわかりえない。したがって、現存する当時の建物や、残された絵画、諸記録などから妥当な線を導いて、設計図は作成される(復元された大極殿だってそうだった)。
となると・・・建築の側の人々はやはり建築に携わる側の方々は、その想像される範囲の中で、できる限り豪壮な、見栄えのするものを作りたくなるのは人情というもので、そのような主張をなされることが多いのだそうな。対して、歴史・考古学に携わる方々の意見は・・・想定される範囲の中で最も確からしさが認めある部分での復元を主張する・・・そして、わが文学側の代表としての上野先生のお考えは・・・まあ、どっちでもいいや、あえていけば豪壮なほうがいいな。どうせよくわかんないんだもん・・・というようなことを考えながら、黙っていたのだそうな・・・そんなやり取りの結果としての案が現代の復元案なのだそうだ。
そして・・・この南門の前に広がっているのは
これまた広大な一角である。ここに広がっていたのは・・・
朝堂である・・・
なるほど。
背景がよく分かりました。
柱穴だけ、あるいは柱穴と礎石だけが残っているような遺跡は、皆同様なのでしょうね。
竪穴式住居だって、柱穴だけから復元された上物は、意外と実際とは違っている可能性もありましょう。子どもの頃、登呂遺跡の復元図を見て、柱穴だけからどうしてそこまで復元できるのか不思議でした。子どもならではの素直な疑問だったのだと思います。
薬師寺の東塔・西塔のようなケースは稀なのでしょうね。
倒壊した塀などが発掘された山田寺はすばらしい発見だったと思います。
立体物として復元されてしまうと、それが一人歩きしてしまう不安もありますね。想定される姿に諸説の開きが大きすぎる場合は、いっそ復元しないというのも見識のような気がします。
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源さんへ
>背景がよく分かりました
まさに、この一日旅行ならではのことです。
以前、大極殿の復元に際しては現存の様々な建造物を参考に設計したということは聞いたことがあるのですが、その背後にこんな話があるとはね~
> 薬師寺の東塔・西塔のようなケースは稀なのでしょうね。
倒壊した塀などが発掘された山田寺はすばらしい発見だったと思います。
こんなものが一つ一つ参考になっているのでしょうね。
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