萬葉一日旅行 2019年・・・4

ここまでご案内くださった奈良文化財研究所のY先生とお別れしたあと、私たちはいよいよ大極殿に着いた。

結構な予算を割いて作り上げたこの建造物は、見掛け倒しでは決してない。事の是非はともかくとして、用いられている材は能う限りの贅(「税」という語も掛けている)を尽くしたものであって一部の手抜きもない。隅から隅までじっくり見つくさねば、それは収めた税の無駄遣いになってしまう。この大極殿の内部に入るのは、これでもう5度目ぐらいであるが何度入ってもその豪壮さにはため息が出てしまう。

順番は前後するが、大極殿の北側にあるその昇り口を上り詰めたところで、本日のレジメを作ってくださったS先生のお話にいただく。内容は次の続日本紀の記事について。

まさに今、平城の地、四禽しきんに叶ひ、三山しづめし、亀筮きぜい並に従ふ。都邑といふを建つべし。

和銅元(708)年、二月

始めて都を遷す。

和銅三(710)年、三月

平城遷都にかかわるところの記事である。S先生は以上の記事をご説明くださった後、同じく続日本紀和銅四(711)年九月に「宮垣未成」とあることから、710年遷都した後も、平城宮(たぶん平城京も)も完成してはおらず、工事は続いていたであろうとのお話があって、一同は大極殿の内部に入った。ちなみにこの平城遷都のようすについては近年、渡辺孝さんによって小説化された。ものは創作物であり、描かれたすべてが真実であるとはいいがたいが、小説家の創造物を種に自らの中で平城遷都の様子を想像するのも一興であろう。

ちなみに言わずもがなであるが念のため・・・「四禽」とは四神とは、都の四方を守る聖獣、青龍・白虎・朱雀・玄武のこと。「三山鎮を作なし(三山作鎮)」は、周囲をかこむ三つの山がその地を守ってくれていること。「亀筮」は亀の甲羅を用いた占いのこと(今回の新天皇の即位のまつわる種々の儀式の中でもこの占いは行われていたよね・・・今頃こんなことをしているんだとちょいとビックリしたけど)。ようはこの平城の地が都城をなす地として最適なものだったかをこれらの記述は語っているのだ。

さて、大極殿の内部である。

壁面には奈良県在住の画家である上村淳之(上村松篁氏の子で上村松園の孫)氏による四神と十二支が描かれている。「四神」は上に述べた「四禽」のこと。北の壁面には玄武・東に青龍・南に朱雀・西に白虎が穏やかな筆致で描かれている。十二支はむろんそれぞれの方角を守っている。

そしてそれらを含めたきらびやかな空間の中央にデンとおさまっているのが、

高御座たかみくらである。

高御座は日本大百科全書によれば、

即位、大嘗会、朝賀などの儀式のときに天皇の着す座。皇位そのものも意味する。平城宮では大極殿に、平安宮では大極殿・豊楽殿・武徳殿に設けられた。1177年(治承1)に大極殿が焼亡したのちは、紫宸殿に設けられたこともある。

とのことである。現在、本物は京都御所の紫宸殿に安置されており、大正・昭和・平成の即位式に使用された。そして、今回の即位に際しても同じものが使われている。なんでも、大正・昭和の天皇の即位の際には天皇御自らが京都に赴き、御所に安置される高御座において即位したが、平成の即位の際には警備上の理由から即位にかかわる儀式は皇居内で行われたため、高御座はヘリコプターにて現皇居に空輸されたという。むろん、この空輸というのも警備上の理由のためであるが、今回の即位式の際にはトラックにより陸送されたそうである。

天皇を取り巻く社会情勢の変化が理由だというが、この変化は前天皇の様々な努力によってもたらされたものであることは言うまでもない。さらに方までもないことであるがこの復元第1次大極殿に安置されているものは京都御所のそれを参考に復元されたもの。

形状はご覧の通りの八角形。これは道教等の古代中国の思想において「八」が聖なる数と考えられていたことに由来する。飛鳥・白鳳時代に築造された天皇陵の多くが八角形であることもその反映であり、万葉集において、「おほきみ(天皇)」の枕詞が「やすみしし(八隅知し)」であることも、これと無縁ではないとされている。

高御座の内部には上のようないすが置かれているが、もちろん天皇がお座りにあるべきものである。まことにシンプルなつくりとなっているが、極めて丁寧な作業が施されていること、ある程度の距離を持って眺めても伝わってくる(ただし私の写真では伝わらない 笑)。そして・・・どれほど上質の材が用いられてるのかも・・・

そして・・・このいすから見渡せるのが・・・

現在大極殿院南門の工事中であり、残念ながら眺望にはちょいと支障がある。が、以前は・・・

 

こんな感じで、ちょいとかすんではいるが大和の盆地のすべてが見渡せている(中央の建造物は朱雀門である)・・・はず・・・。だから天気さえよければ背後には・・・平城人たちにとっての聖地である吉野の山々が・・・。

こんな景色を見ていると、せっかく作った藤原京を20年足らずで捨てて、平城の地に都を遷した理由がよくわかる気がする(この辺りから私の勝手な感想になるのであんまり信用なさらないでほしい)。

盆地の南端の藤原の地では南に吉野の山々があまりにも間近に迫りすぎており、このような眺望は開けてこない。君子は「南面」しなければならないから、それではちょいと困る。おまけに藤原宮跡に立ち、そこから吉野の方向を見ればわかるのだが、宮跡の辺りから吉野の山々に向けて、大地は緩やかな傾斜でせりあがってゆく。となると・・・そのあたりに住む臣下は、天皇の住む宮を見下ろす形になってしまう。これは・・・ちょいとまずいよね。

それが・・・大極殿から見渡す眺望が、上の写真のような場所ならどうであろうか。平城京は大和盆地の北端。しかも、この平城宮はそこから奈良山へと続く斜面上に位置するから、天皇は臣下から見下ろされる感はしない・・・

萬葉一日旅行 2019年・・・4” への5件のフィードバック

  1.  大極殿院南門も建設中なのですか、それは楽しみです。
     と言いつつ、大極殿から朱雀門が見えにくくなってしまうようなら、ちょっと残念な気もします。

     以前、自分の所に書いたような気もしますが、遷都1300年の頃、西大寺・奈良間の近鉄線の中から大極殿を見ていました。そうしたら、近くにいたおばさまたちのグループが騒ぎ始めました。
     「あ、ほら、あれ」
     「あ、あれ、なんやったかなぁ?」
     それを耳にして、「大極殿」という言葉を思い出せないのだと思いました。専門用語だと思いますので、思い出せなくても無理もありません。
     やがて、
     「パビリオンや!」
     「あ、そやそや!」

    ということで、「大極殿」が思い出せなかったのではなく、「パビリオン」が思い出せなかったのでした。
     ま、建造のタイミングとしては、あの大極殿は式典時のパビリオンの意味も兼ねていたのかもしれませんが、後世にまで伝え得る、しっかりとしたものを造ってくれたと思います。

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    1. 源さんへ

      >パビリオン・・・

      パビリオンですか・・・まあ、あの巨大建築がいったい何ものかをご存じない方には、あの式典に合わせてできたこの建物は、確かにパビリオンでしょうね。

      >大極殿から朱雀門が見えにくくなってしまうようなら、ちょっと残念な気もします

      南門については次回お話しする予定なのですが・・・やはりこれが完成してしまったら、朱雀門が見えなくなってしまいますよね。それ以外の遠景は多いが外れればだいぶ回復しようかとは思うのですが、朱雀門が見えなくなってしまうのは避けられませんからね。

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  2. > 事の是非はともかくとして、用いられている材は能う限りの贅(「税」と
    いう語も掛けている)を尽くしたものであって

     事の是非ですか? バカ高い欠陥戦闘機に税金を投入するよりは、はるか
    にマシやないかと思います。少なくとも墜落(崩落?)はしませんからね(笑)。

     でもね、最後のお写真を拝見するに、カンカン照りの日にこの場所に立って
    いたら、日射病で倒れること必至ではないかと…… 敷地の広大なことには驚
    きました。十勝の畑を連想しましたよ。

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    1. 薄氷堂さんへ

      >バカ高い欠陥戦闘機・・・

      そうなんですよ。あの「バカ高い欠陥戦闘機」の一機分で、ちょうどこの大極殿一つ分ですからね。
      でも、こっちは一つだけですからね。まあ、あったからといって実務的に役に立つものではありませんが、同じように役に立たないものを100機買うよりはよほどましかと・・・メンテナンスの費用は…と考えれとねえ・・・おまけに大極殿は人の命を奪うことはありませんからねえ・・・

      >十勝の畑を連想しましたよ

      まさか「十勝」には及ぶわけもありませんが・・・それでも奈良盆地の北の果てから南の果てまで見渡せるこの席は・・・あの時代天皇だけのものだったんでしょうねえ。

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  3. 薄氷堂さんへ

    >バカ高い欠陥戦闘機・・・

    そうなんですよ。あの「バカ高い欠陥戦闘機」の一機分で、ちょうどこの大極殿一つ分ですからね。
    でも、こっちは一つだけですからね。まあ、あったからといって実務的に役に立つものではありませんが、同じように役に立たないものを100機買うよりはよほどましかと・・・メンテナンスの費用は…と考えれとねえ・・・おまけに大極殿は人の命を奪うことはありませんからねえ・・・

    >十勝の畑を連想しましたよ

    まさか「十勝」には及ぶわけもありませんが・・・それでも奈良盆地の北の果てから南の果てまで見渡せるこの席は・・・あの時代天皇だけのものだったんでしょうねえ。

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