萬葉一日旅行 2019年・・・2

SK219・・・大膳職推定地は、ここ平城宮跡で初めて木簡が発見された場所である。

上の写真で言うと、中央の二つの植え込みの間のやや右手の場所がその場所だという。1961年1月24日、小雪のちらつく日であったという。Yさんの説明は続く。真冬の発掘現場にてこの場所の発掘作業に励んでいた××さん(失礼ながらお名前を忘れてしまった)は、地中より文字の書かれた木片を見つけるなり、その重大性を意識し保存のためにバケツに水を張り、その中に発見したばかりの木片を入れ文化財研究所まで自転車で搬送したのだそうだ。当時の文化財研究所は今ある平城宮跡ではなく、奈良公園内にある国立博物館・・・結構距離があるんだなあ・・・これが。そこを、たっぷりと水を張ったバケツをハンドルにぶら下げて大急ぎ(しかも、これは絶対にこけてはいけない)するさまは、ちょいと映画(しかもコミカルな)の1シーンを見るような思いがする。

そんなこぼれ話を聴くことができるのも、この1日旅行の楽しみではある。

さあて、移動だ。大膳職推定地後の北に沿った道を東へ少しばかり移動する。すぐに左手に小山が見えてくる。その小山を正面から見ると・・・

伝平城天皇陵である。平城天皇といえば、平城京への再遷都や薬子の変で有名なお方であるが、この辺りについては以前少し詳しく書いた。

平常への憧憬・・・再び

ここで面白かったのはこの陵の名を記した扁額についてのYさんのお話。写真中央のやや左のものがそれである。むろん写真ではお伝えすることはできないが、この扁額の墨で書かれた文字は、その文字の部分だけが浮き上がっている・・・いわゆる、浮き彫りのように見える。けれども・・・ということでYさんはお話を続ける。

そもそも初めこの扁額は木片に普通に墨書しただけのもので、けっして浮き彫りのような細工は施してはいなかった。それがこうやって毎日日光にさらされることにより、木片は収縮する。ところが墨書された部分はそこだけ日光が当たらないので収縮せずに残り、結果として浮き彫りのように見えるようになったのだという。

Yさんはさらに続ける。

木簡の中にもそのようなものがあり、そのことによってその木簡が日にさらされるような使い方がされていたことがわかること。さらには日光に当たって脆くなるせいか、そのような木簡の扱いには非常に気を遣うのだとか・・・さらには彼らのような方々(考古学者?)の間での木簡と呼ぶべきものの定義だとか・・・まことに興味深い話であった。

そうそう・・・ついでに、その木簡の定義とは何かをお話しておこうか。

・・・まず木片であること。文字が書かれていること。土の中に埋もれていた過去があること・・・

以上がそのすべてであって、その時代・形は問われない。だから・・・とYさんはいう。この平城天皇陵と書かれた扁額も一度土に埋もれてしまいうということがあって、それが再び掘り起こされるようなことがあれば、それはもうすでに木簡なのだと・・・

さあて、次の目的地だ・・・と、そのまえに・・・

南へ200mほどの辺りから振り返ってみた伝平城天皇陵である。

ただ、平城天皇の陵と伝えられてはいるが、実は以前は円墳だとされてきたこの古墳が1962年~1963年にかけての平城宮の発掘の際に、その円墳につながる前方部が発見され、平城京をはるかにさかのぼる時期の前方後円墳であることが明らかになった。平安時代に入って、平城京への再遷都を企てた天皇の陵が平城京以前の前方後円墳であるはずがない。天皇陵に比定されたことでそれまで発掘されることなく来たので、その詳細が分からずにいたのが、その周囲の発掘においてそれが平城天皇の陵ではないことが明らかにされたのである。

そしてこの前方後円墳は外堀を伴っており、その外堀の後方部側の地点と思われるところ。すなわち今私がたっている場所である。先ほどまで私たちがいた、平城天皇陵とされていた後円部からは100mを越える距離がある。してみると・・・後円部の大きさも含めえ考えると、この平城天皇陵と伝えられていた古墳は250m前後の極めて巨大な古墳であることがわかる。

後から発見された前方部がなぜこれまで気づかれてこなかったのかというと、平城京を作る際にその前方部が平城京の予定敷地にかかっていたため撤去され、後方部のみが残っていたためだという。

平城京(平城宮)を作った人々は、誰が祀られているとも知らぬ古墳よりは、新たに作られる都のほうを優先したのである。

萬葉一日旅行 2019年・・・2” への2件のフィードバック

  1.  見事すぎるほどの青空ですね。当日の暑さがしのばれます。
     発掘や発見にまつわる秘話は、情景が目に浮かんでわくわくします。当事者のわくわくが伝わってくるのでしょうね。
     墨の部分だけが浮き彫りのようになるというお話も興味深いです。スミに含まれるニカワも影響していそうですね。
     平城天皇陵、平城京を作るときに削っちゃったんですねぇ。(^_^;
     それだけ巨大な前方後円墳ならば天皇陵だった可能性もありましょうに……。
     ①誰の陵墓だか分からないからいいや、②埋葬部分(後円部がそうだとして)を残せばいいや、③削る前にきちんとお祓いすればOK、④平城京建設のためならいかなる犠牲も払う、などのうちのどれでしょうね。(^_^)

    いいね

  2. 源さんへ

    >当日の暑さがしのばれます。

    本当に暑い日でしたね。30度を超えていましたから・・・
    でも、こんな場所においては、実際発掘に携わっていらっしゃる方々のお話ってのはそのワクワクが伝わってきて、何とも言えないものですね。

    >平城天皇陵、平城京を作るときに削っちゃった

    まあ、正確には平城天皇陵とされている、平城京以前の前方後円墳ですが・・・
    まあ、平城京を作る段階ではもう誰のものとも知れぬ古墳だったんでしょうね。
    そうそう、それとYさんは・・・一概に平城天皇の陵であることは否定できない。なぜならば、皇室関係陵に指定されている以上、発掘はできない。となれば、残されていた後円部のみを円墳に見立てて平城天皇をまつった可能性は否定できないから・・・ともおっしゃっていました。

    いいね

コメントを残す