天の原 ふりさけ見れば・・・捕逸

以前、2回にわたり安倍仲麻呂の著名な一首についてに私見にお付き合いいただいた。
くどいようであるが、もう少しだけ言い添えておきたいことがある。あと一度だけお付き合い願いたい。
上の二つの記事において私はその作歌の背景を、古今和歌集に示された左注に従って考えてみた。この左注と同様な理解は古今和歌集の編者でもある紀貫之の土佐日記にも次のように示されている。
むかし安倍仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけ、わかれ惜みて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ仲麻呂の主、「我が国にはかかる歌をなむ神代より神も 詠んたび、今は上中下の人もかうやうに別れ惜しみ、よろこびもあり、かなしみもある時には詠む」とて、詠めりける歌、
青海原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋の山に 出いでし月かも
とぞ詠めりける。
昔、安倍仲麻呂と言った人は、唐土に渡航し、帰国の時に舟に乗る予定となっている所で、かの国人が送別の宴を催し、別れを惜しんで漢詩を作ったりした。満足出来なかったのだろうか、(宴は)20日の夜月が出るまで続いた。その月は海から出てきた。これを見て、仲麻呂は「私の国ではこんな歌を神代の頃から神様もお詠みになり、今は(身分が)上の人も中・下の人もこんなふうに別離を惜しみ。喜びもあり。悲しみがある時も詠むのですよ」と言って詠んだ歌、
青々とした大きな海原をはるかに仰ぎ見ると、望月が煌々と輝いている・・・ああ、あの日、春日の・・・春日の御蓋の山の上に輝いていたあの月よ・・・
と詠んだ。
まずは「青海原」と言う語に注意がゆく。いくつか手元の辞書にあたってみると、「青海原」とは「青々とした広い海」のことだという。けれども・・・皆さんがご存じの古今和歌集(百人一首)に収録されたこの歌の初句には、「天の原」とあるはずだ。「天の原」とは「 大空」、あるいは「天つ神のいる世界。天上界」のこと。すなわち、この初句の違いは仲麻呂が見やっている視線の先の違いを示す。これはかなりの違いである。土佐日記・古今和歌集のどちらも紀貫之の手になるものである。そこにこのような異同が生じるのは少々奇異なことのように思える。
まあ、古今和歌集の方は他に紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の手が入っているから、古今和歌集の本文はその3人の誰かの手によるものだと考えられなくもないが、まさか編者4人がそれぞれの巻を分担執筆していて、それぞれの担当の巻には干渉できなかったなんてことは考えられないし、名目上この4人の代表は紀友則ではあったが、実質的な責任者は紀貫之であったことを考えると、少なくとも古今和歌集の編纂時において貫之はこの歌の初句を「天の原」と認識していたと考えなければならない。土佐日記の成立が古今和歌集の成立の30年後ということであるから、歳月による記憶の転変ということもあろうが、この歌が古今和歌集巻九の巻羈旅頭に配されているという事実、すなわちその巻の歌の中でも最も古く由緒のある歌であるとの位置づけからしても、それは少し考えにくい。
とはいえ私には、これ以上この疑問について語るだけの力量はない。疑問は疑問として話を先に進めよう。
上記の土佐日記の記事は、大筋として仲麻呂がいよいよ日本に帰ろうとするときに唐の友人たちが別れを惜しむ宴を催してくれ、その宴においてこの歌が詠まれたとする点において、古今和歌集の内容と大きな異なりはない。ただ違うとすれば、その別れの宴に様子をより詳しく述べているところにあろうか。土佐日記は言う。
かの国人、馬のはなむけ、わかれ惜みて、かしこの漢詩作りなどしける。
つまり、仲麻呂との別れを惜しむ人々は唐土の人々。そこで交わされるのは当たり前のことではあるけれど漢詩ということになる。そういった宴の場において「我が国にはかかる歌をなむ神代より神も 詠んたび、今は上中下の人もかうやうに別れ惜しみ、よろこびもあり、かなしみもある時には詠む」と、あえて漢詩ではなく和歌・・・やまとうた・・・で望郷の思いを歌い上げる。唐土の人々は和歌をそのまま理解できるよしもない。その後のいきさつを土佐日記は次のように語る。
かの國の人聞き知るまじくおもほえたれども、ことの心を男文字にさまを書き出して、こゝの詞傳へたる人にいひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむめでける。
あちらの国の人は(和歌を)聞いても理解できまいと思われたが、歌の意味を、漢字でその大略を書き出して、こちらの言葉を習得している人に説明して知らせたところ、意味を聞いて理解することができたのだろうか、実に思いがけないほどに感心したそうだ。
 
つまり一旦和歌として口ずさんだこの歌を唐土の言葉に翻訳し、その意を伝えたところ「かの國の人」の人々もいたく感じ入った・・・というのだ。
今、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、
翹首望東天   首を翹げて東天を望めば
神馳奈良邊   神こころは馳す 奈良の辺
三笠山頂上   三笠山頂の上
思又皎月圓   思ふ 又た皎月の円まどかなるを
との五言絶句が刻まれている。彼を見送ろうとする唐の文人たちを相手に帰郷の喜びを述懐しようとすれば、こちらの方がその場においては的確なものであったのだろう。が、今まさに帰郷の願いがかなおうとするその時、彼は自らの国の言葉でその思いを表現せざるを得なかった。それが多くの人に知られる上の一首であったのだ。
・・・と考えた時、私には製作の順は、土佐日記に語られているような・・・和歌→漢詩・・・の順ではなく、まず漢詩の方が先で和歌はその漢詩を後から翻案したものではないかと思えてならないのだ。
すなわち、宴の場においてさかんに漢詩が交わされる中、仲麻呂は帰郷に向けての今の思いを述懐せよとの周囲からの声があった。だとすればここでいきなり和歌でその声に応えたとすれば、ちょいと場の空気が読めなかったと言わざるを得ない。仮に今私たちがどこぞの国の留学生を送る宴を催していたと言う場面祖想像しても、急にその留学生の母国語で語り出されたりしたら周囲のものはきっと戸惑うだろう。
そう・・・仲麻呂はまず周囲の声には漢詩で応えたのだ。ただ・・・仲麻呂はそれではどうしても満足できなかった。今、彼の胸中に去来する思いを的確に表現しようとした時、そのすべは和歌・・・やまとうた・・・でなければならなかったのだ。博学才穎にして唐土の言葉にも通じ、かの国の官界にて重きをなしていた仲麻呂にして、あふれるばかりの望郷の思いはかの国の言葉では表現しきれなかったのだ。どうしても「やまと」の言葉でなければならなかったのだ。そして仲麻呂は歌う。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋の山に 出でし月かも
 ・・・と。
いささか妄想が過ぎたかもしれない。が、その宴の場を胸中に思い描いた時、このように考えた方がすんなりと私の腑には落ちるのだ。
なお現在、大和三山の一つ香具山の東に築かれた公園に一つの石碑が据えられている。その石碑に刻まれた漢詩は
翹首望東瀛   首をげて東瀛とうえいを望めば
神馳藤原京   こころす藤原京
香具洛陽乖   香具、洛陽は乖れたれども
世代傳友情   世代友情を傳つたふ
平成13年に橿原市と友好関係にある洛陽市の市長であった劉氏(失礼ながら下の名は失念)の作である。この詩が上の仲麻呂の絶句を踏まえたものであること論を待たない。以下の二つに記事に、この漢詩の内容や事情についてやや詳しく書いている。あまりあてにはならないと思うけれども、よろしければそちらを参照していただければ幸いである。
さあて・・・いよいよ最後である。この宴がこの歌の作歌の場であるという考えは、現代においても多くが認めるところであるし、私自身もこれを積極的に疑うものではない。が、はたして紀貫之はどこまでこの事情を正しく知り得ていたか、少々疑わしく思えないでもない。
安倍仲麻呂は717年に唐土にわたり、770年に唐土で世を去った。この間の彼の経歴についてはそれほど多くの資料が残されているわけではない。そして・・・それらの中にこの歌の場について書かれた資料を私は見つけることが出来なかった。ことは私の不勉強によるものかもしれぬが、このようなことを紀貫之はどうして知りえたか、それが分からないのである。
古今和歌集の編纂の際に、その原資料にはこのことが書いていたものだとは想像することは可能だ。が、若くして唐に渡り、その地にて生を全うし果てた一人の男のある宴にて詠んだ和歌が、そしてそのいきさつがどのようにして我が国に伝わってきたのか・・・非常に興味深いところである。

天の原 ふりさけ見れば・・・捕逸” への2件のフィードバック

  1. ご無沙汰しております。
    SNSの方にかまけておりまして、ブログの方は長いお休みを頂いておりました。
    色々な制約が多くて、やはりブログの方が良いなぁと思った次第なのです。

    時折拝見しておりましたが、ずっと研究を続けておられるご様子には正直頭が下がります。
    古今と土佐日記の表記の違いは実に興味深いです。
    そして漢詩を作ることも然りながら、それを意訳して歌にする才能も凄いですよね。

    当時の方の教養の深さには驚かされます。

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    1. Noriさんへ

      ほんとうにお久しぶりですね。
      わたしもFBとツイッターはアカウントを持っているのですが、まあブログの更新の通知に使っているだけですね。
      それで、何か積極的に発信しようって気にはなりません。

      >当時の方の教養の深さには驚かされます。
      そりゃあ、外国人でありながら、進士の第に登ったわけですからね。
      ぴか一の秀才だったんでしょうね・・・

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