安倍文殊院に行く

先日、ちょいと思い立って安倍文殊院というお寺を訪ねた。我が町、桜井市安倍にある華厳宗の寺院である。むろんご本尊は文殊菩薩、知恵の御仏である。その名にあやかってか、その近辺には「知恵の里」などと名づけられた分譲宅地まである。左大臣として大化の改新の一翼を担った安倍倉梯麻呂が、安倍氏の氏寺として創建した寺院で、切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられている。

今回、この古刹を訪れたのは、こちらのご本尊様にちょいとお会いしたくなったからである。ご本尊は渡海文殊、鎌倉時代の大仏師・快慶が建仁3年(1203年)に造立したものである。当然のこととしてその撮影は禁じられているため、今ここでその美しいお姿を示すことは出来ない。以下の安倍文殊院のアドレスにアクセスし、ご覧いただければありがたい。

http://www.abemonjuin.or.jp/treasure.html

ただし、写真ではその魅力が充分にお伝えできないのは必然。先日まで奈良国立博物館において「快慶展」が開かれていたのだが、その展覧会に、こちらの文殊さんは写真による参加(あまりに大きすぎて運べない)であったらしいが、それを見てきた家人が、実物を眼前にして・・・「全然違う・・・」・・・と一言。であるから、皆さんもその魅力を味わうためには桜井の地まで足を運ばねばならない。

ちなみに、いささかの拝観料は必要になってくるのだが、本堂に隣接した弘法大師をお祀りしているお部屋にて、緋毛氈の上に座りお茶とお菓子をいただくことができる。

ところで・・・桜井市に居住する私であるから、同市内にあるこの御寺に来るのが初めてであるわけはない。何度も何度も訪れているわけではあるが、拝観料を支払ってお堂にあげてもらい文殊さんにお会いするのは、今回が2回目。もう7~8前年(いや、もっと前か?)のこと。こうやって久しぶりに訪れると、このような古刹ではあってもいくばくかの変化が境内にはある。

安倍という地名でもお分かりのように、この地は古代氏族安倍氏の本貫地。安倍氏は古代の氏族においてはそれなりの位置を占める一族ではあったが、藤原氏の台頭等の諸事情から次第にその影が薄くなる。が、そんな中にあっても、この人の名は忘れてはいけない。

天の原  ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

安倍仲麻呂

ご存知、安倍仲麻呂は717年、遣唐使と共に留学生として唐に渡る。同期の留学生としては、日本史に少しでも興味のある方ならばきっとご存じの吉備真備と僧、玄昉がいる。 彼はとっても優秀だった。なにしろ、留学生仲間の吉備真備や玄昉が日本に帰るとき、彼だけが、唐に惜しまれて帰して貰えなかったぐらいに優秀だった。その上、後にあの難関で有名な中国の官吏採用試験「科挙」にも合格するぐらいだった。玄宗皇帝にも仕えることになった彼は、李白などとも交流があった。渡唐して30有余年の753年、やっと帰国を許された彼に、李白は送別の詩を作っている。しかし、彼を乗せた船は、難破する。その情報は長安にも伝わり、彼が死んだと思いこんだ李白は、七言絶句「哭晁卿衡」という詩を制作し「明月碧海に沈みて帰らず」と、その死を悼んだ。

結局のところ、仲麻呂は難破はしたものの長安の都に帰りつくことは出来たのだが、その後、彼に二度と日本に帰りつくチャンスはなかった。

そんなことがあった前のことか、後のことかそれはわからない。おそらくはいずれの時かの遣唐使が日本に帰るときの送別の宴であろう。 ひょっとしたら自分が日本に帰ろうとしたおりの宴かも知れない。海辺の町に彼はいる。そして故郷の平城の都を思う。彼が見つめているのは海の彼方、東の空。日本のある方角であろう。ならばそこに煌々と輝いているのは満月。

彼は思う。あの時といっしょだ。あの時、御蓋山の上空に見た月といっしょだ・・・・

ならば、あの時とは・・・

二月壬申みずのえさるつきたち 遣唐使祠神祇於蓋山之南

二月壬申朔 遣唐使 蓋山の南において神祇を祠る

続日本紀養老元年

という一文がある。「蓋山」は御笠山のこと。養老元年は西暦に直せば717年だから、上にも述べた仲麻呂が遣唐使として派遣された年である。仲麻呂も「蓋山之南において神祇を祠」った一人であることは想像に難くない。大和盆地の東端にそびえる御蓋山を拝しようとするならば、人々は当然その山上の東の空を振り仰ぐことになる。東の空に浮かぶ月は満月・・・

ここで・・・仲麻呂の脳裏の二つの月は一つになる。希望に燃えた若者であっただろう彼の目に、その日、御蓋山山上に照っていた月は忘れがたいものであっただろう。彼はその日の光景を長い唐での生活の中で忘れることはなかったのだ。

・・・とこの歌を私は理解してきていたのだが・・・こうやって書き継いできて、今ふと気が付いた。それは・・・上に述べた続日本紀の「二月壬申朔」という下りである。「朔」とあるではないか。満月であるならば、この月は15日にものでなければならない。と考えると、私はこれまでのこの歌についての理解を変えなければならないことになる。

ただ、唐土から海を見晴るかした時に見える月、そして仲麻呂がその日見たはずの御蓋山の上空の月は、その方角からして満月でなければならないという事実は変わらない。

となると、奈良にいらっしゃったことのある方ならばおそらく気がつくことであろう・・・この月を見た時の彼が御蓋山の麓にいたことは動かせない。彼は間違いなく御蓋山の麓で、その上空に煌々と輝く月を見ていたのだ・・・と。

なぜならば、夜に盆地の側から見た時、それはいかに明るく月が照っていようと、御蓋山は、その背後にある御蓋山より一まわりも二まわりも大きい春日山の影の中に飲み込まれてしまい、その稜線を確認することは出来ない。つまり、そこに御蓋山があると認識することが出来ないからだ。

このように考えた時、続日本紀に記された「朔」という日付と、この事実の食い違いをどのように考えるべきかという問題に突き当たる。そして、今、私にはみなさんに確証をもってこうだと言えるような答えは持ち合わせてはいない。ここまで書いてきてそれはないだろうと思われるかもしれないが、ないものはない。なんだか先日までの国会のやり取りのようであるが、国会のそれとは違って実はよく調べてみたありました・・・なんてことはまずない。あとは皆さんがご自由に想像をなさっていただければと思う次第である。

そうそう・・・「国会の・・・」という下りを書いたとき、ふと思い出したが、以前私がこの文殊院に来た時になかったものがもう一つある。

上の仲麻呂の歌碑の横につくねんと立っていた。我が国の宰相はこの古代豪族安倍氏の流れを汲むらしいので、そのゆかりで献燈されたらしい。事実かどうかは知らないが、なんでも我が国の偉大なる宰相の家は奥州安倍氏の流れであるらしい。そして・・・この奥州安倍氏の素性に関するいくつかの説に、この安倍の地を本貫とした古代豪族安倍氏の流れであるという説があるらしいのだ。

ともあれ、仮にも一国の宰相が献納された石燈であるから、一応、四方からしげしげと眺めてみた。すると、その右側面に思いもよらぬ一節が刻み込まれていた。ここにその一節を紹介し、今回の記事を終えることとするが、決して驚かないでほしい(ということは、私が甚だ驚いたことを意味する)。

祈 世界平和

どうだ・・・おどろいただろう・・・

安倍文殊院に行く” への6件のフィードバック

  1. > どうだ・・・おどろいただろう・・・

     いやあ、ご立派ではありませんか。世界平和を祈るとは意外でした。

     これで知恵の里への応募資格があるくらい分別に富み、大ウソを慎んでく
    れれば尊敬してもいい(笑)と思っています。

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    1. 薄氷堂さんへ

      ほんとうに意外でした。
      私は神様や仏様の前に行ったときにはかならず世界平和をお祈りするのですが・・・
      まさかかの宰相もおんなじことをお考えとは・・・恐れ入り屋の鬼子母神でございました。
      ・・・日頃の宰相のお言葉が、あまりにも私の思いの対極にありましたので・・・

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    1. 中川@やたナビさんへ

      これはこれは・・・私としたことが・・・
      あまりの驚きに
      大切な証拠写真を撮っておくことを忘れていました。
      機会があれば、証拠写真を撮っておくことにします。

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