春日大社若宮にて今から1300年前におそらくはこの地にて旅の無事を祈った若き阿倍仲麻呂に思いを馳せた後、社前から南に延びる森中の道を行く。
春日大社の南に広がる蒼然たる木立の向こうには、昔から春日大社の禰宜たちが住まいを為した高畑町がある。そして・・・当然のことながらその「蒼然たる木立」には、禰宜たちが春日大社と自宅とを行き来するための道が幾本か生じた。禰宜道である。今、私たちが歩いているのは、その幾本かのうちの一つの上の禰宜道である。一番高い所を抜けていることからこの名がついているという。
ただでさえ薄暗い雨交じりの空だというのに森中の道は更に薄暗く、ご覧のような人数で歩いているというのにそのざわめきは木立に吸収されあたりは森閑としている。こんな道を歩きながら御蓋山にいます神の神威を感じないものなど・・・まずはいないだろう・・・などと思いつつ歩みを進めて行くと木立は急に途切れ、自動車道を隔てて高畑の住宅街が広がる。
この自動車道は東に進めば、春日山・高円山が形成する谷に向かう。そしてその道は二つの山の山すそが接するあたりで行き止まりとなり、そこからはハイキングをするに相応しい渓流沿いの道が山中へと延びている。いくつもの小さな滝を見ながら峠を越える「滝坂の道」と呼ばれる古道となる。
けれども今日私たちは東には向かわず、西へと緩やかな斜面を下る。しばらく進んで左の折れる路地のような道に入りさらに右に折れ西へと向かう。その距離おおよそ500m、車一台がやっとの細い道、連なる住宅の間に一見空き地に見えるような空間が見えた。
赤穂神社である。境内入口は北向き、鳥居が無い。ブロック塀の間に式内赤穂神社と社名を刻んだ石塔が建っているだけである。
社殿は西向き。拝殿の向こうに赤いかわいらしい御社が二つ並んでいる。
当社の神殿はこの二つの御社であろうが、左のそれには天満宮と弁財天、右側のそれには赤穂神社と書かれた札が掛けられている。いつ頃の創祀かは詳らかではないが、延喜式神名帳の添上郡にある赤穂神社に比定されている。これから向かう予定の鏡神社の別社である。
日本書紀には天武天皇7年4月14日に
夏四月丁亥の朔に、齋宮に幸さむと欲して之を卜ふ。癸巳卜に食ふ。仍りて平旦時を取りて、警蹕既に動き、百寮列を成し、輿に乗り蓋を命して、未だ出行すに及らざるに、十市皇女、卒然に病發りて、宮中に薨ります。庚子に、十市皇女を赤穗に葬る。
また同じく天武天皇の11年1月27日には
十一年壬子、氷上夫人宮の中に薨ります。辛酉、氷上夫人を赤穗に葬る。
とあるように二人の高貴な女性が葬られた場所としてこの赤穂の地は記されている。
十市皇女(653年~678年)は、天武天皇の第一皇女で母は万葉歌人額田王である。長じて大友皇子(弘文天皇)に嫁ぎ、天智天皇の8年(669)頃に葛野王を産むが、天武天皇元年(672)、皇位を巡って夫と父が争う事態になる。壬申の乱である。結果は皆さんがご存知のとおりであるが、実の父により夫の命が失われたという事実は皇女の心に深い傷を残したことは想像に難くない。上の記事の「卒然にして病發りて」との一節に自殺との疑義が差しはさまれるのも故なしとしない。
他にも壬申の乱の際には皇女が密かに大友皇子側の情報を父天武に流していたのではないか・・・と考えるむきがある。扶桑略記・水鏡・宇治拾遺物語がそうである。中でも宇治拾遺物語の「鮒の包み焼きに密書を隠した」という逸話なんかは読み物として興味深いが憶測の域は出ないだろう。(「清見原天皇与大友皇子合戦事」 やたナビTEXTより)
壬申の乱以後は父(天武天皇)のもとに身を寄せた考えられるが、敗北した大友皇子側の妻であったという事実は、彼女が依然として大変複雑な辛い立場にあったことを容易に想像させる。そんな娘を思いやってのことであろうか、皇女は天武天皇の4年(675)、阿閉皇女とともに伊勢神宮に参詣したとの記録が残る。天武天皇の命によるものと思われるが、おそらくは伊勢の大神の霊威により、傷ついた娘の心の再生を願おうとする父親の配慮ではなかろうか。
十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌
川の上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて
万葉集巻一・22
はその際のものであ。清らかな流れにそそり立つ巌の岩肌のきらめきの如く清潔な印象の女性ででもあったのだろうか。しかし、そんな皇女は上の記事の如く急死する。35歳(30歳とする説もある)であった。その際に詠まれた高市皇子の次の3首は
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
みもろの 神の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き
三輪山の 山辺真麻木綿 短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき
山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
万葉集巻二・156/157/158
第1首の「已具耳矣自得見監乍共」はいまだ定まった訓みがない。この歌から、皇女が後に高市皇子に嫁いだとか、恋愛関係にあったとか、あるいは高市皇子が片思いをしていたとか、様々な考えが錯綜しているが私には何とも判断はできない。ただ異母であるとはいえ、同じ天武の子。しかも壬申の乱という未曽有の大戦を経験した同世代が共有した思いがそこにあったことは否めないであろう。3首目、「山吹の 立ちよそひたる 山清水」とは「山吹(黄)」と「清水(泉)」で「黄泉」を想像させるが、皇女が今静かに眠る「黄泉」の世界があでやかに山吹に彩られているように願った高市皇子の発想の元には、ひとかたならぬ通説があったことを想像するのはさして過誤無きことのように思う。
氷上夫人(氷上娘・氷上大刀自とも)は藤原鎌足の娘で、藤原不比等・五百重娘の姉。天武天皇に嫁ぎ、但馬皇女を生す。万葉集には次の1首を残す。
藤原夫人歌一首 浄御原宮御宇天皇(天武天皇)之夫人也 字曰氷上大刀自也
朝夕に 音のみし泣けば 焼き太刀の 利心も我れは 思ひかねつも
万葉集巻二十・4479