先日は皆様に次のような詩をご紹介した
翹首望東瀛
神馳藤原京
香具洛陽乖
世代傳友情首を翹あげて東瀛を望めば
神は馳す藤原京
香具洛陽は乖れたれども
世代友情を傳ふ
ただしその時は転句の最後の文字
を「乗」と判読しその意を「永遠に語り継がれる。」とし全体の意を
首を高く上げて東の海の彼方日本を望み見れば、我が心は早や藤原京に馳せ行く
香具山と洛陽の名は永久に語り継がれ、橿原・洛陽両市の友情は何時の代までも続いて行くだろう
というふうに訳してみた。
・・・が、その後玉村の源さんのご指摘に従いこの文字は「乖」ではないかと思うようになった。字形の判読の点からいっても、意味の点からいってもその方がはるかに通ると思う(事の詳細は前回記事の源さんと私のやり取りをご覧いただきたい)。したがって、そのように前回の記事をこの理解に従い改めようとは思ったが、それではせっかくご指摘いただいたという事実が消えてしまう・・・というか、ブログ本文とコメントの内容に齟齬が生まれてしまう。
加えて今回の私の誤りを安易に無きものにして素知らぬ顔をしたならば、自らの国の誤りを無かったかのように語る輩と同列になってしまう。ここは己の誤りをどうしても残さねばならぬ。かといって、誤りをそのまま残しておくわけにはいかない。
ということで今回新たに稿を起こし前回の誤りを訂正することにした。となればその訳も改めなければならない。最後にそれをお示しする。
首を高く上げて東の海の彼方日本を望み見れば、我が心は早や藤原京に馳せ行く
香具山と洛陽とは、離れてはいるが橿原・洛陽両市の友情は何時の代までも続いて行くだろう。
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