田原の里へ・・・春日大社

Photo0194.jpgさて、行ったかどうか記憶の定かでない手向山八幡をあとにした私たちは、春日大社へと向かう。若草山の麓に立ち並ぶ茶屋やら宿屋を右に見て、程なく春日奥山に源流を求めることが出来る清流水谷(みずや)川渡ると、我々は定められた道以外には入ることを拒むかのような深閑たる木立に入る。春日の杜だ。

木立の中をまっすぐに伸びる道の両側にはいくつかのお社が建ち並ぶ。春日大社の摂社か、付属の建造物であろう。突き当たったところを左に折れ、再び右に折れ、また突き当たる。そこで左を見ると正面には瀟洒な朱塗りの回廊が見える。春日大社西回廊である。本殿をはじめ弊殿・舞殿・直会殿などの、この平城の御代より続く神の社の中核のすべてがこの内にある。

西回廊に突き当たった私たちは、そのまま回廊に従い南に下り、表参道に出る。無数の石灯籠が立ち並んでいる。年2度・・・・2月の節分と8月のお盆の14日、15日これらの灯籠の全てに灯がともされる。万灯籠である(現在境内に在る石灯籠の数は3000基ほど)。信仰厚き人々によって寄進されたこれらの石灯籠にともされる浄火によって、春日の御社は年に3度闇夜に中にゆらりと照らし出されるのだ。

IMGP0265.jpg南門前に出る。壮麗な朱塗りの門を抜けると目の前に見えるのは弊殿と舞殿。写真の建物の向かって左が弊殿、右が舞殿である。回廊内にもうひとつ回廊があり、本殿はその内に在るせいで見ることは出来ない。

続いて・・・春日大社からほんのわずかだけ東南に歩みを進めた地に在る若宮社。

以前私は若宮社についてのように書いた。

奈良時代、遣唐使に派遣される人々は出立の前にこの若宮で旅の無事を祈ったという。さらには、若宮の祭神が正しい知恵をお授けくださる神とするならば、これから唐土の地にて新しい知識を吸収して来ようとの意慾に溢れた若者たちにはもってこいの神であったのかもしれない。717年、遣唐使船に同行した若者、阿倍仲麻呂もその一人であった。

IMGP0292.jpg実はこの一文は、この時に、この場所において師から受けたレクチャーの内容を敷衍したに過ぎない(つもりでいた)。30年以上も前に師から聞いた話は、いまだに私の脳裏に強く刻み込まれていたのだ。ただし、その記憶には所々怪しいところがあり、今調べ直していると上の一文には少しく不確かな部分が在る。

一つ目は「奈良時代、遣唐使に派遣される人々は出立の前にこの若宮で旅の無事を祈ったという。」の部分。この事実を示す記録は

二月壬申朔。遣唐使祠神祇於蓋山之南(遣唐使 蓋山の南において神祇を祠る)

続日本紀養老元年(717)

という一文である。「蓋山」は御笠山のこと。養老元年と言えば

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御笠の山に いでし月かも

との一首を詠んだ阿倍仲麻呂が唐土に渡った第9次遣唐使が派遣された年である。仲麻呂も「蓋山之南において神祇を祠」った一人であることは想像に難くない。が、遣唐使が派遣される際にここに詣でたという記録はこれのみであり、それ以外の遣唐使たちが「蓋山之南において神祇を祠」った証拠はどこにもない。

二つ目は、春日大社の伝えによればその創始は神護景雲2年(768)であり、遣唐使たちが「蓋山之南において神祇を祠」った時にはまだ春日大社はなかったことになる。ということは、彼等が詣でたのは春日大社の若宮社ではないことになる・・・

初歩的な・・・といえば、あまりに初歩的な誤りであり、それをいかにも知ったかぶりで紹介したことは実に恥ずかしい限りであるが、今、心を静めて思い返せば、その時に師が話して下さったのは、阿倍仲麻呂の上の一首において、なぜ御笠山が詠まれたのか・・・という点についてのみだったような気がする。

まだ春日大社はなかったにしろ、渡唐を目前にした仲麻呂が「蓋山之南において神祇を祠」ったのは事実である。今まさに母国へと大洋を渡ろうとする仲麻呂の脳裏にその時の光景がありありと思い出されても、そこにはなんの不自然もない。

師が私たちに語ってくれたのはここまでだったような気がする。それに長い間にいろいろと尾ひれを付けてしまったのが上に示した私の妄想なのだろう・・・ということで、ここからはひたたび私の勝手な妄想である。

ご存じ阿倍仲麻呂は英才中の英才、唐土においてその学才が認められ、官職に就く。続日本紀に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡(阿倍仲麻呂)の二人のみ」と激賞されるほどであった。その仲麻呂が、いよいよ皇帝に帰朝を認められのが天平勝宝5年(753)のこと。寧波(ニンポー)の港において送別の宴が催される。その際に詠まれたのがこの歌であるという。

この歌には

翹首望東天   首を翹げて東天を望めば
神馳奈良邊   (こころ)は馳す 奈良の辺
三笠山頂上   三笠山頂の上
思又皎月圓   思ふ 又た皎月の(まどか)なるを

という漢詩バージョンもある。彼を見送ろうとする唐の文人たちを相手に帰郷の喜びを述懐しようとすれば、こちらの方がその場においては的確なものであったのだろう。が、今まさに帰郷の願いがかなおうとするその時、彼は自らの国の言葉でその思いを表現せざるを得なかった。それが多くの人に知られる上の一首であったのだ。

ただ一つ、ここで解決しなければならない問題である。彼らが「蓋山之南において神祇を祠」った二月壬申朔であった。朔日ということであれば、旧暦のこと、その日御笠山の山上に望月は輝いてはいない。もし、この歌が仲麻呂が「蓋山之南において神祇を祠」った夜の光景を思い描きながら歌ったといするならば、残念ながらそこに望月は輝いていないのだ。なればなぜ、仲麻呂はここに望月を登場させたのか。

歌の場は、唐の寧波の港である。彼の視線は当然これから帰るべき日本の方角・・・東である。彼の目には煌々と輝く月があった。東の夜空に輝く月といえば望月である。その時、彼の脳裏にはかつて平城の都から見た御笠山の山上の月がありありと見えたのである。そしてその御笠山は渡海の直前に旅の安全を祈願した忘れがたい山である。

最後にこんなふうに思っている人がいるかもしれない。「仲麻呂の歌には『月』としか言っていたではないか。なのに、なぜ三友亭は『望月』にこだわるのか?」と・・・これは奈良の地理を少し思い浮かべてもらえればすぐにわかる。平城の都から見れば、春日山・御笠山は東に位置する。東の空に輝く月は・・・「望月」ではないか・・・

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