先日の記事を受けて、私は早速現地へと向かった。この週末のことである。17日土曜日、車を走らせること10分、目的の地には近づいたが、この日は新聞にあったとおり発掘担当者からの現地説明会が行われており、周囲は一切の駐車禁止。近辺に都合のよい駐車スペースも見あたらなかったため、翌日を期してこの日は家に帰った。
翌18日、私は再び現地へと向かう。案の定、人影はまばらで駐車スペースを探すにはなんの苦もなかった。車を降りた私は柵に囲まれた発掘現物に近づき、早速シャッターをきる。
説明会も終わった後のこととて青いシートが敷かれ、現物を確かめられることはできなかったが、考古学的な興味よりも万葉集に残された大津皇子の辞世の歌との関係についての興味が優先する私は、そんなことは気にしない。気になるのはその磐余の池の堤から見える風景である。死を目前にした大津皇子がどのような風景を目にし、
ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
と詠んだのか知りたいと思うのみである。
上の写真に見える丘が天の香具山だ。この香具山を東端としたいくつかの丘陵群が織りなすいくつかの谷が、今回発見された堤後の地点において一つになっているのが、この場所を訪れて確認できた事柄である。
そしてその谷の一つにはご覧のような小川が・・・
この地点に堤を築けば、さほど苦労せずに人工の池を構築できるであろうことは容易に想像できる・・・
ただ、それらの地理的条件をもって今回発見されたこの遺跡が「磐余の池」の堤であると断定してよいものかどうかは別問題である。なぜなら、この近辺には同じような地形を構成する場所が他にもあり、例えばここから東へ1200mほど離れた桜井市谷も「磐余の池」の有力候補地であることは否めないからである。
この磐余の池谷説をとる千田稔氏は
桜井市谷周辺には磐余池に関連する古い神社も多く、大津皇子の屋敷のあった場所にも近い。今回見つかった建物跡は宮殿施設にしては柱が細いし、天皇にふさわしい豪華な遺物も出ていない(毎日新聞 2011年12月16日 大阪朝刊)
とも述べておられその蓋然性も認めうるべきものと私は思う。
要するに私には今のところどちらとも言いかねるのである。ただここで私が興味を覚えるのはこのいずれの地が「磐余の池」であるかによって上記の大津皇子の辞世の歌に対する読みがいささか異なったものになってくる点にある。
まず今回発見された場所が磐余の池であったとして考えてみよう。万葉集の題詞によれば、当該の辞世の歌は磐余の池の堤にて歌われたものである。そして日本書記の記事に寄れば皇子が死を賜ったのは皇子の自宅「訳語田舎(オサダノイヘ)」はこの池より1,5kmほど北東に離れた場所にある。現在の桜井市戒重がそれだ。身を拘束され、死を予定されたものがそんな距離を池を見るために(辞世を詠むために)わざわざ移動したことは考えにくい。とすれば、皇子は逮捕後、当時都のあった飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)のおいて拘束、取り調べを受け、その後自宅まで護送され死を賜ったことになる。辞世はその途中、「磐余の池」の畔を通過したときの作と理解しうる。
ただその際に少々気にかかる点があるとすれば、飛鳥浄御原宮から訳語田舎までの経路がある。まず普通に考えられるのが、明日香から東へ、そして次第に北の湾曲しながら山田の地を抜ける山田道だ。この道はその北辺で上つ道に連接し大和盆地の東端を北上する。皇子の家のあった訳語田はその道すがらにある。しかし、これでは今回発見された場所の近くは通らない。
とするともう一つ考えられるのは中つ道。明日香の地から北には香具山を突き抜ける形で北に中つ道が走る。この道をしばらく北上し、横大路(三輪と二上山を結ぶ)を右に曲がればすぐに訳語田の地だ。ただこの中つ道にしても今回の発掘場所のすぐ近くを通過する訳ではない。「磐余の池」の畔で上記のような辞世を詠むためには少々回り道をしなければならない。
そこで・・・今回の「磐余の池」が谷の地にあったと想定してみよう。谷は皇子の家のあった訳語田(現在の桜井市戒重)と隣接した場所にある。とすると、皇子は自宅にあって拘束され、取り調べを受けその後そのまま自宅において、あるいはほど近い場所で死を賜ったと理解することが可能になってくる。
繰り返す。私にはどちらが真実か判断するような力は無い。ただ、その歌の詠まれた場所がほんのわずか東西にずれるだけでも,、その歌の読みにかような異なりが生じてくることに面白みを感じているだけだ。自らの恣意的な読みではなく、歌作者の心により近づくために、これまで述べてきたような作業が必要な場合生じることもしばしばある。考えはあっちに揺れ、こっちに揺れる・・・そして、結局結論は出ない・・・そんな作業の一つ一つが・・・私には楽しくてたまらない・・・
>三友亭さん
「今日のみ見てや雲隠れ(隠り?)なむ」というのは、万感がこもっていて泣かせる歌ですね。
いま参考書を調べたら、大津皇子の実作かどうかは疑問とされているようですけれど、それならそれで当時の人々の思いが伝わってくるわけですから、やはり印象深いものがあります。
二十四歳で処刑というのは、いかにも気の毒すぎますね。
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薄氷堂さんへ
本当にひしひしと伝わってくる歌ですよね。
後人の仮託であるという説が現在では優勢といっていいでしょうね。
少なくともこの歌がおさめられている巻の三がまとめられたころには大津皇子の事件に関しての物語がまことしやかに語られたことでしょう。
そうなると・・・やはりその最後を飾るような歌はほしくなりますよね。
なかったとすれば・・・作るしかなかったでしょう。
けれどもその物語を享受する人々にとってはどっちでもよかったことなのだったでしょう。もし仮に仮託された歌であったとしても、すくなくとも万葉集が編纂された頃の人々にとってはそれが事実であったわけです。
追って書き・・・「雲隠れ(隠り?)なむ」・・・ご指摘ありがとうございます。どこかの段階で間違ってしまったのをそのままコピーを繰り返していたようです。
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